「そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げていったとき、神がそこでヤコブに現れたからである。」 創世記35章7節

 神がヤコブに声をかけられました。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のために祭壇を造りなさい」(1節)という声です。

 ヤコブは20年前、兄エサウの顔を逃れてハランに向かう途中、ベテルで神に会い、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」(28章15節)という祝福を受け、励まされて出発しました。

 苦労はしましたが、大きな財産を携えて故郷に帰ってきました。兄エサウにも、思いがけない歓迎を受けました。けれども、大切なことをヤコブは忘れていました。それは、彼が戻るべき場所のことです。

  そのためということではないと思いますが、娘ディナがシケムで辱めを受け、息子たちが復讐のために町を襲いました。しかるにヤコブは、それらのことが起こっても何も言わず、何もせずで、家族が分裂してしまいそうです。そのようなときに、神の声がヤコブにかけられたのです。

 神の声を聞いたヤコブは、20年前を思い出したでしょう。独りぼっちだったとき、あの苦しかったときに現れて下さった神の愛を。そして、その時に与えられた約束をです(28章20~22節)。

  ヤコブは立ち上がり、家族に、「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難のときわたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る」と語ります(2,3節)。ヤコブは、スコトに建てた家や土地、そして今寄留しているシケムの町を離れることを宣言したのです。

  この言葉を聞いたヤコブの家族は、持っていた外国のすべての神々をヤコブに渡し(4節)、それらを木の下に埋めて出発します。ヤコブに従ったというよりも、神の恵みと憐れみが、ヤコブの家族を動かしたというところではないでしょうか。でなければ、父親としての威厳を失ってしまったヤコブの言葉に、息子たちが素直に耳を傾けることはなかっただろうと思われるからです。

  冒頭の言葉(7節)のとおり、ベテルに着いてヤコブはそこに祭壇を築き、そこを「エル・ベテル」と名付けました。それは、「ベテルの神」という意味です。神は、ヤコブをハランから呼び出すときも、「わたしはベテルの神(エル・ベテル)である」(31章13節)と仰っていました。

 神はここでもう一度ヤコブを祝福し、「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる」(10節)と言われました。これはペヌエルでの祝福の再現です(32章29節)。改めて、過去と訣別し、神の民として、新しい恵みを受けて歩むように祝福されたといってよいのではないでしょうか。

  「身を清めて衣服を着替えなさい」という言葉と合わせて、これはパウロが、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ書3章26,27節)と記している御言葉に通じています。

  「神はわたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13,14節)。神は私たちのことを、御子イエスの血によって清められた者と認め、さらには、私たちが皆、さながらイエス・キリストであるかのように看做されるわけです。「キリストを着ている」とは、そのことです。

 勿論、私たちが自分でイエス・キリストのようになれるわけがありません。これは神の一方的な恵みなのです。ヤコブが神の声に従ってベテルに上り、そこに祭壇を築いたように、私たちも、御言葉に従って主と共に、主の内に住まい、心から感謝をもって主を礼拝しましょう。

  主よ、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、私たちに対する愛を示されました。私たちは、主イエス・キリストによってあなたを誇りとしています。罪の支払う報酬は死ですが、あなたは私たちに主イエスによって永遠の命を賜ったからです。栄光が神に永遠にありますように。 アーメン