「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか。」 創世記34章30節


 エサウと再会を果たしたヤコブは、スコトへ行き、そこに土地を購入して家を建てました(33章17,19節)。ここに住み着くつもりなのです。ところが、ここで事件が起こりました。

 ヤコブには、レアとの間に生まれたディナという名の娘がいました。彼女が「土地の娘たちに会いに出かけた」(1節)のですが、ヒビ人ハモルの息子シケムがディナを見初め、無理やり関係を持ちます(2節)。そして、父ハモルにディナを妻に迎えることを認めてくれるように求めます(4節)。

 ハモルは息子の願いを入れてヤコブのもとを訪れ(6節)、ディナを息子シケムの嫁にくれるように願い出ます(8節以下)。シケムも同様に語ります(11節以下)。彼らの申し出は、シケムがどれほどディナのことを思っているかということを示しており、その意味では、ヤコブが叔父ラバンの娘ラケルを妻にするために、7年間ただ働きすると申し出た心情に通ずるものがあります。

 しかしながら、ヤコブはこの申し出に対して、何ら反応していません。返答したのは、ヤコブの息子たちです。息子らは、シケムたちが割礼という儀式を行うなら、相互に姻戚関係を結ぼう、と応じます(14節以下)。

 ハモルと息子シケムは、ディナのために、ためらわず実行することにし、町の人々にも割礼を受けるようにと提案します(20節以下)。町の人がその「提案をを受け入れた」(24節)というのは、ヤコブたちと関係を持つことが町のプラスにつながるという計算以上に、ハモルが町の首長で、彼らへの信望が厚かったということでしょう。

 しかしながら、割礼を受ければ、姻戚関係を結ぶというのは、真実ではありませんでした。ヤコブの息子たちは、ディナが「汚されたことを聞いた」(5節)とあり、ディナが辱められたことを宗教的「汚れ」と受け止めています。それゆえ、「みな、互いに嘆き、また激しく憤った」(7節)のです。だから、割礼を持ち出したのは、宗教を同じくするならということになるわけですが、それでシケムのしたことを赦すというつもりは全くありません。

 町の人々が割礼を受け、まだ傷の痛みに苦しんでいるときに(24,25節)、ディナの兄シメオンとレビは剣を取って町に入り、男たちをことごとく殺して、妹ディナを取り戻しました(25,26節)。そして、残りの息子たちは、町中を略奪しました(27節以下)。

 ここまで、全く口を開かなかったヤコブが、ようやく口を開きました。それが冒頭の言葉(30節)です。ヤコブは、息子たちがしたことで、この町におれなくなったことを非難しているのですが、ここにはディナに思い遣る言葉も、ディナを取り戻した息子たちへの労いもありません。父親として、娘のことをどう考えていたのでしょうか。

 父ヤコブがはっきりしないので、息子たちが代って行動しただけで、本当ならヤコブがその意思を示すべきだったのです。だから、行動を非難された息子たちが、「妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」と反論すると、それに対する言葉がないのです。

 ヤコブは利に聡く、そのためには手段を選ばず行動するというところがありますが、そうでないときには受身です。ディナのことを聞いても、何の行動も起こしません。それこそ、神に祈ることすらしないのです。

 その意味で、このような事件が起こり、彼がスコトを出て行かなければならなくなったのは、約束の地から離れてヨルダン川の東に留まることを、神がよしとされなかったということではないかとさえ思えます。

 だから、神はヤコブをベテルに呼び出されるのです(35章1節)。彼が戻るべき場所は「ベテル」、即ち「神の家」なのです。神のもとに宿り、その御言葉を聞き、その恵みの内を歩むことなのです。

 主よ、私たちは弱い人間です。他人を非難することは出来ますが、ヤコブと同じ立場になったときに、自己保身に走らないとは言えません。だからこそ、あなたに依り頼みます。どうか、試みにあわせないで、絶えず悪しき者からお救い下さい。御言葉に耳を傾けます。真実を教えて下さい。 アーメン