「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。」 創世記33章10節


 帰国したヤコブは、いよいよ兄エサウと20年ぶりの対面に臨みます。兄は、400人の供を連れています。その仰々しい出迎えを見たヤコブは、心中穏やかではなかったでしょう。兄の顔を避けてハランに旅立った日のことを、昨日のことのように思い出したのではないでしょうか(27章41節以下、28章5節)。

 彼は、父イサクを騙し、父が兄に与えると約束していた祝福の祈りを横取りしたのです。兄エサウはそれを知ったとき、ヤコブを殺す企てをしました。だから、逃げ出したのです。

 ベテルで神の祝福を受けたヤコブでも(28章10節以下)、ハランで大家族となり(29章15節以下)、ひと財産をなしたヤコブでも(30章43節)、そして、ヤボクの渡しで神の使いと互角に相撲をとり、「イスラエル」という名前をもらったヤコブであっても(32章23節以下、29節)、それと共に腿の関節が外れ、杖なしには歩けなくなったヤコブには、エサウがどれほど恐怖だったことでしょう。しかし、もはや逃げ出すことも出来ません。

 ヤコブは観念し、兄の前に「七度地にひれ伏し」ました(3節)。地にひれ伏すのは、家臣が国王に対して、あるいは人が神に対して行う儀礼的な行為で、「私はあなたの下僕です」という態度です。七度それをしたということは、何度も何度も繰り返したということですが、七は完全数ですから、私は絶対あなたに反抗しません。完全にあなたに従いますということを表わしているといってよいでしょう。

 すると、「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣」(4節)きました。つまり、エサウはヤコブの帰郷を喜び、歓迎してくれたのです。ヤコブは兄を「ご主人様(アドニー:「わが主人」の意)」と呼び(8節)、エサウは、「弟よ」と呼んで答えています(9節)。さながら、放蕩息子とその父親が再会したときのような、麗しい光景ですね。

 ヤコブには、そんなエサウがにわかに信じられません。本当にこれが兄エサウだろうか、別人ではないだろうか、と思ったことでしょう。冒頭の言葉(10節)には、そんなヤコブの気持ちが書かれています。それは特に、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」というところです。

 ヤコブは当初、兄エサウがどのように行動しても身の安全を確保出来るように、組を二つに分けました(32章8,9節)。また、兄に嫌を直してもらえるように、贈り物を準備するという、二重三重の備えをしました(32章14節以下)。しかし、エサウがヤコブを無条件で受け入れ、歓迎してくれるので、今度は、感謝の思い一杯で、贈り物をどうしても受け取ってくれるようにと頼み込みます。

 ヤコブは、どうして兄エサウがそんなに優しくなっているのか、未だに分からずにいます。しかし、エサウの顔が、神の顔のように見えるというのは、興味深い表現です。

 イスラエルには、人間は罪深いので神の御顔を見ることは出来ない、清い神の眼差しに触れると、一瞬にして心刺され息絶えてしまう、といった考え方があります。ところが今ヤコブは、エサウの歓迎振りに、自分の罪過ちを兄が赦してくれたと実感し、そこから、神の御顔を見るということは、裁きや罰を受けるというのではなく、罪赦され、受け入れられることだと語っているわけです。

 ヤコブは、ベテルやヤボクの渡しでの体験に基づいて、そう語ったのでしょう。兄エサウと相見えて、そのことがはっきりしたということではないでしょうか。ここに、聖書の語る福音があります。

 三度主イエスを否んだペトロも、主イエスの愛の眼差しに見つめられ(ルカ22章61節)、やがて立ち直りました。私たちも、神の愛と赦しの眼差しに絶えず守られていることを感謝し、その恵みに応えて歩みたいと思います。

 主よ、あなたは迷い出た一匹の羊を探し回る羊飼いのように、 放蕩息子の帰還を走り迎えた父親のように、何時も愛と憐れみに満ちた眼差しで私たちを捕らえ、守り導いて下さいます。そのご愛に応えて、あなたの御言葉の光の内を歩ませてください。いよいよ深く真実な交わりの内に、共におらせて下さい。 アーメン