「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」 創世記31章13節


 ヤコブは、ラバンの息子たちが、「我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にします(1節)。これは、ラバンがヤコブのものを搾取するつもりが、自分がその落とし穴に落ち込んでしまったということであり、以前、ヤコブのゆえに豊かに祝福されていただけに、それを取り戻された形になって腹立たしい思いになっているということを表わしています。

 ですから、少々軽蔑の思いを抱きながら、ヤコブには満面の笑顔を見せていたであろうラバンの態度は、以前とは全く違ったものに変わってしまいます(2節)。バカにしていた甥にしてやられたわけですから、腹立ちも一様でなかったことでしょう。

 しかし、ヤコブにとって重要なのは、ラバンの息子たちの言葉や、ラバン自身の態度ではありません。自分の行動を主なる神がどのように御覧になっているか、ということです。主はヤコブに、「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(3節)と語りかけられました。

 ヤコブは早速妻たちを呼び、話をします(4節以下)。それは、父ラバンがいかにヤコブを欺いたか(6節以下)、それにも拘らずいかに神がヤコブを祝福されたかということであり(7,9節)、その神が、冒頭の言葉(13節)のとおり、「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」と言われたということでした。

 神がご自身を、「ベテルの神」と町の名前で紹介するのは、異例のことだと思いますが、明確に28章18~22節の出来事を思い出させます。神が20年前の出来事を思い起こさせたのは、彼が立つべき場所は、持ち物の多さ、財産の豊かさなどではなく、彼を守り、祝しておられる神への信仰だということを、ヤコブ自身と、この物語を聞く私たちに対して明らかにするためだったのです。

 妻たちもその話に応じ、「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか」と語り、「今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください」と答えます(16節)。

 通常、結納金は使わないままとって置かれて、最後には娘たちに渡るようになっていたようなのですが、ラバンはそれを自分で使い果たしていました。そのケチさ加減、貪欲ぶりに、娘として愛想を尽かしていたということでしょう。

 ヤコブは家族を連れ、密かにラバンのもとを抜け出しました(17節以下)。三日目にヤコブが逃げ出したことに気づいたラバンは、一族を引き連れて追いかけ、七日目にギレアドの山地で追いつきます(22節)。ラバンがヤコブを追いかけたのは、娘たちに別れの口づけをするためであり(28節)、また、守り神を取り戻すためでした(30節)。それは、ラケルが父の家の守り神の像を持ち出していたからです(19節)。

 ヤコブは、ラケルが守り神を持ち出したことを知りませんでした(22節)。だから、「守り神を盗んだ者がいれば、生かしてはおかない。調べて取り戻して下さい」と答えます(22節)。それは、自分は盗んではいないという表現です。ただ、ラバンは守り神を見つけることは出来ませんでした(33,34節)。

 やり取りの中で、ラバンが、「夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった」(29節)と語っていました。ここに、ラバンの守り神は自分のありかを知らせることも出来なかったけれども、イスラエルの神はヤコブを守るために、ラバンを見出し、警告を与えたという、分かり易い対比をもって、主こそ神であることを示しています。

 この神の仲介により、ヤコブとラバンは、契約を結びます(43節以下)。それは、神が二人の間を見張り(49節)、ヤコブが妻たちを蔑ろにせず(50節)、また、アブラハムの子孫とナホルの子孫が相互に土地を侵さないように(52節)という契約です。

 ヤコブの祖父アブラハムとラバンの父ナホルはもともと兄弟同士ですが(11章26節)、後に、ナホルの地、パダン・アラムを支配したアッシリア、彼らの故郷カルデアを支配したバビロニアにより、アブラハムの子孫イスラエルは土地を侵され、捕囚となりました。それは、神が見張りを辞められたということではなく、イスラエルが神の教えを蔑ろにし、異教の偶像に走ったからでした。

 ヤコブとラバンとの間に結ばれた契約に、「多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福するものは祝福されるように」(27章29節)というイサクの祈り、それに応えたもう神の祝福が響いています。誰の計画が上手くいっているように見えても、本当に堅く立つのは神の御言葉(イザヤ書40章6節)、そのご真実だけなのです。

 主よ、あなたは私たちのために、天の窓を開き、溢れる恵みを注いで、良いもので満たして下さるお方です。大いなることを期待して、絶えず主を仰ぎます。御言葉を信じ、大胆に歩み出します。主が私たちと共にいてくださる、ということにまさる祝福はないからです。 アーメン