「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。かならず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」 マラキ書3章10節


 今日は、旧約聖書の締めくくりの箇所です。この箇所から、神の恵みを味わいましょう。

 8節に、十分の一の献げ物と献納物において、神を偽っているという告発があります。つまり、神のものを盗んでいるというのです。レビ記27章30節以下、申命記14章22節以下に、すべての収入の十分の一を神に献げるようにと命じられています。

 十分の一を献げることになった原点は、アブラハムがいと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクに対して、すべての物の十分の一を贈ったことでしょう(創世記14章20節)。また、ベテルで祝福の約束を受けたヤコブが、約束が成就した暁には十分の一を献げるという誓願を立てています(同28章30,31節)。

 また、献納物(奉納物)というのは、祭司やレビ人たちの生計のために分けられる犠牲の部分です(出エジプト記29章26節以下、レビ記7章31節以下など)。そして、祭司たちも、受けたものの十分の一、最上のものを神に献げなければなりませんでした(民数記18章26節以下)。1章、2章の記述からすれば、イスラエルの民だけでなく、祭司たちもその教えを守っていなかったのでしょう。

 彼らがそれを守れなかったのは、理由のないことではなかったと思われます。というのは、10節に、「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」と記されています。ということは、その当時、天から雨が降らず、旱魃による不作が続いていたのではないかと想像されます。

 また11節には、「食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにする」とありますから、イナゴなどの害虫による被害に絶えず見舞われていたのでしょう。旱魃に虫の害、まさに泣き面に蜂の状態です。

 ですから、そのような状況の中で食うや食わずの生活をしているような人々が、わずかに収穫できたものや、次期の収穫に備えて蓄えているようなもの、また、家畜の産んだ初子などを神の前に携えて来るのは、言うほど容易なことではなかったと思います。

 しかるに神は、冒頭の言葉(10節)のとおり、十分の一と献納物は神のものだから、まず神の倉に納めよ、そうすれば、旱魃や害虫などによる被害から守ろう、そのとおりになるかどうか試してご覧、と言われるのです。

 主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイ福音書6章25節)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同33節)と教えておられます。

 これらの御言葉で語られているのは、神とその御言葉を信じるか、ということです。神の愛に対する信頼があれば、多くを献げることが出来るでしょう。そうすれば、大きな恵みを味わうことが出来るというのです。

 ダビデ王が、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23編4節)と語ることが出来たのは、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴う」(同1,2節)羊飼いなる主への信頼、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる」(同5節)という信仰があったからです。

 すべてのものは神のものです。確かに、収入は自分の労働に対する報酬で、どのように使おうと個人の自由でしょう。けれども、働くために必要な知恵や力、健康、そして職場があることは報酬ではありません。家族があること、家庭の暖かい交わりも報酬ではありません。

 十分の一と献納物を捧げるのは、すべてが神の所有物であると信じることです。そして、主の豊かな恵みに対する感謝と喜びの表明です。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)。

 主よ、私たちはあなたの恵みによって常に守られ、支えられています。御言葉に従い、献げることにおいても豊かな恵みを味わうことが出来ますように。 アーメン