「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」 ミカ書5章1節(口語訳・新改訳では2節)


 4章14節(口語訳・新改訳は5章1節)に、「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵はわれわれを包囲した」とあります。これは、アッシリアの大軍がエルサレムの城壁を取り囲んだときのことでしょうか。

 ヒゼキヤ王がエジプトなどと組んでアッシリアに反旗を翻し、それが一時期は功を奏して、アッシリアからの独立を果たせたかに見えましたが(列王記下18章7,8節)、再びアッシリアが体勢を立て直してイスラエルに進軍してきたときには、それに対抗することが出来ませんでした(同18章13節)。そして、高い賠償金を払わなければなりませんでした(同18章14~16節)。

 その上、大軍がエルサレムを包囲してイスラエルの神を冒涜し、無条件降伏を求めたのです(同18章17節以下、27節以下、19章10節以下)。それは、再び背くことがないように、ヒゼキヤ王を退位させ、アッシリアの言いなりになる別の王を立てるためだったのでしょう。

 そのとき、ヒゼキヤは預言者イザヤに託宣を求めました。イザヤは、アッシリアの王が都に入場することはおろか、戦いを仕掛けることもないと、神の言葉を告げました(同19章20節以下)。そして、神は御使いを遣わして一夜のうちにアッシリア軍を撃ち、アッシリアの王はひとり、ニネベに逃げ帰ったと、列王記の記事には記されています。

 今日の箇所は、イザヤの預言とその成就を見る前なのかどうか、よく分かりませんが、冒頭の言葉(1節)にあるように、ミカは、イスラエルを治める新しい王がベツレヘムから登場することを語ります。

 ベツレヘムは、語られているようにイスラエルの中で小さな町ですが、しかし、ここはダビデ王の出身地です。ですから、ダビデのように、主なる神への堅い信仰をもって国を治める王の登場を期待したものと言えます(3節)。小さい町ですが、そうであればこそ、町を守るのに自分の力などではなく、神に信頼するほかはなかったでしょう。そして、神はその信頼に応えて下さるのです。

 そして、クリスチャンにとって、冒頭の言葉は、特別な意味を持つものとなりました。それは、救い主イエス・キリストの誕生を預言する言葉となったからです(マタイ福音書2章6節)。主イエスは、暗闇に閉ざされている人々に希望の光、愛の光、命の光を与えて下さいます。これが、クリスマスのメッセージです。

 ここで目を留めていただきたいのは、マタイがミカの預言を引用している中で、一箇所不正確なところがあるのです。それは、「いと小さき者」というところが、「決して一番小さいものではない」と変えてあるのです。このような変更が加えられたのは、マタイ自身の体験に基づいているのかもしれません。

 彼は人々に蔑まれながら占領国ローマのために税金を徴収する徴税人でした(マタイ福音書9章9節)。しかし、キリストと出会い、その弟子となり、12使徒の一人に選ばれました。マタイにとって、自分は実際には小さい者ではあっても、キリストが生まれたということ、キリストと出会うことが出来たということは、決して小さいものではない、否むしろ、それは大きなことだということでしょう。

 だから、主イエスの生まれたエフラタのベツレヘムは、かつては「いと小さき者」だったかもしれませんが、今は、「決して一番小さいものではない」と言えるものに変えられた。誰でも、主イエスと出会うならば、同じように、「決して小さい者ではない」といわれる恵みに与ることが出来るというわけです。

 マタイの書いた福音書が、今日も、全世界で読まれています。それこそ、決して小さいことではありません。神は私たちを、能力や知恵、財産などによって選ばれたのではありません。それらのものを持たない、無学で普通の人だからこそ選ばれました。それは、ただ神に信頼するためです。主に信頼するとき、決して小さくない働きが神によってなされていくのです。

 「ミカ」とは、「誰が主のようなお方か」という意味の名前です。この問いの答えは、主のようなお方は他にはいない、主なる神だけが私たちの信頼に足るただひとりのお方だということです。


 主よ、あなたはいと小さい者を選び、主の力、御名の威厳をもって平和を打ち立てられます。それが、主イエスの十字架と復活を通して明らかにされました。どうか、世界中にキリストの平和を与えて下さい。すべての人々の心にキリストの平和がありますように。 アーメン