「それゆえ、お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。」 ミカ書3章6節


 イスラエルの不正を糾弾する預言者ミカの言葉は、次第に激しさを増して来ます。神に立てられて、正義を行うことが期待されている「ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者たち」(1節)が、善を憎み、悪を愛する者となっているからです(2節)。これは、アモスが「悪を憎み、善を愛せよ」(アモス書5章15節)と語っていることに通じます。北王国にも南王国にも、その指導者たちに正義が見られないのです。

 「人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように、釜の中の肉を砕く」(2,3節)というのは、彼らがおのが腹の満足のみを追い求めて、その権力を笠に、いかに民を食い物にしているかということを、比喩的に表現したものです。

 そのため、「今や、彼らが主に助けを叫び求めても、主は答えられない」と言われます(4節)。アモス書でも、「わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス書8章11節)と告げられていました。

 預言者たちについて、「歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する」(5節)と言い、また、「預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか。災いが我々に及ぶことはない』と」(11節)と記して、食物を供し、袖の下を握らせるか否かで語る言葉を選ぶという彼らの厚顔無恥ぶりを言い表しています。

 だから、冒頭の言葉(6節)のとおり、「お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない」と言われるのです。災いに際して主に叫び求めても、主は何も答えて下さらないのです。サムエル記上4章のエリの子らの裁きや、同28章でサウルの求めに主が何もお答えにならなかったことを思い出します。

 ただしかし、これは昔のイスラエルのことで、自分とは関係ないとは思えませんでした。むしろ、これが私たちの現実ではないでしょうか。善を憎み、悪を愛するという自覚はありませんが、生活の忙しさにかまけて、神の御言葉を聴くことが疎かになります。祈りの生活が疎かになります。

 なかなか、聖書を自分に向かって語りかけられている神の御言葉として、真剣に読むことが出来ません。祈りを通して神の御前に進み、神と交わりをするという静かな時間をとることが出来ません。私の事情が神の御言葉よりも優先するのです。そしてそれを、やむを得ないこととして来ました。

 故榎本保郎先生が、「壊れやすいのは、祈りの祭壇です。あなたの祈りの祭壇は壊れていませんか。あなたの祈りの祭壇から、芳しい香りが主の前に絶えず立ち上っていますか」と語っておられた言葉を思い出します。人の顔色を伺い、人の事情が優先するような聖書の読み方、祈り方をしていて、どうして、生ける神の御言葉を聴くことが出来るでしょうか。

 私たちに対して語りかけられる神の御言葉をはっきり聴くことなしに、その御心を悟ることは出来ません。どんなに教理的に正しく教えることが出来ても、それは、どこまでも人間の知恵、知識による言葉であって、それで人の魂を揺さぶり、真の悔い改めに導くことは出来ません。それで、まことの神の愛が伝わるはずがありません。

 信仰に入って以来、私たちはどれほど成長してきたでしょうか。いえ、むしろ後退しているのではないでしょうか。神から断罪されれば、言い逃れることは出来ません。ただ素直に、「あなたの仰るとおりです」と認めるのみです。しかし今、この裁きの言葉を自分に語りかけられている神の御言葉として真剣に聴くならば、神は私たちの歩むべき道、私たちがなすべきことをも語って下さるでしょう。主の御前に謙りましょう。

 「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ5章5,6節)と言われているとおりです。


 主よ、あなたこそ真の羊飼いです。あなたの他に良い羊飼いはいません。あなたが私のことを心にかけ、必要のすべてを豊かに満たして下さるからです。主よ、私の耳を開いて下さい。あなたの御声に聴き従います。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなただけなのです。 アーメン