「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」 ホセア書14章5節(口語訳・新改訳聖書は4節)


 ホセア書最後の章で、神は、「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と招かれます(2節)。それは、悔い改めへの招きです。悔い改めとは、罪の懺悔ということもありますが、方向転換して、何よりもまず心を神に向けること、そして、主の御言葉に従うことです。

 神はイスラエルに悔い改めの誓いの言葉を教えられました(3,4節)。その中で、「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません」と言います。これは、アッシリアやエジプトという大国の力に頼ることをやめるという宣言です。また、戦車や騎馬など、軍事力に頼って国を守ろうとすることをやめるという宣言です。

 圧倒的な力を持って迫って来る大国に対し、同盟諸国に頼らず、あるいは軍事力に頼らないというのは、決して容易い話ではありません。まさに、神への信仰が問われるのです。

 また、「自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません」と言います。ダンとベテルに置かれた金の子牛の像を拝み、バアルに仕える偶像礼拝と訣別し、ヤロブアムの罪から離れるという宣言です。この宣言を携えて、神の前に出るのです。

 そこで神は、素晴らしい約束を与えて下さいました。それが、冒頭の言葉(5節)です。そして、その恵みのゆえに、「彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる」(6~8節)と言われています。

 このように、主がイスラエルの民に誓いの言葉を教え、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」と言われるのは、悔い改めの宣言をすれば赦してやるぞ、ということではありません。既に神はイスラエルを赦しておられるのです。そうする以外に、イスラエルの民が神に立ち帰り、恵みを得る道はないからです。

 ここに、神の憐れみが示されます。主なる神は、「咎につまずき、悪の中にいる」(2節)イスラエルの人々に、悔い改めて主のもとに立ち帰るようにと招き、そして、帰ってきた民に豊かな恵みを与えようとしておられるわけです。

 しかしながら、この預言がいまだ実現していないことを、私たちは知っています。むしろ、北イスラエルはこの預言の後、アッシリアに滅ぼされてしまいます(列王記下17章)。それ以来、北イスラエル10部族は完全に失われてしまいました。とすれば、この預言は当たらなかったということになるのでしょうか。悔い改めへと招いたのに、彼らがそれに従わなかったから、滅ぼされてしまっても仕方がなかったということでしょうか。そうかもしれません。
 けれども、これは、もっと広い約束ではないでしょうか。神は石ころからでも、アブラハムの子たちを造ることがお出来になります(マタイ3章9節)。自らの背きの罪を刈り取らなければならなかったイスラエル、滅ぼされてしまった神の選びの民を、神は癒し、その繁栄を回復されるというのです。

 そればかりでなく、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民を憐れみ、ご自分の宝の民として選び出されたように、罪の奴隷となっていた異邦人の私たちをも、ご自分の民に加えることがお出来になります。そのために主なる神は、主イエスの十字架の贖いを通して、私たちが神の御前に進む道を開いて下いました。

 だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づくことが許されるのです(ヘブライ書4章16節)。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。・・主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブ書4章8~10節)。

 主よ、背き続けてきた私たちをも悔い改めへと招き、救いと癒しをお与え下さる御愛と御恵みに、心より感謝します。すべての悪を取り去り、恵みをお与え下さい。神よ、私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン