「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる。」 ホセア書13章15節

 エフライムは、ヨセフの2番目の息子であり、ヨセフは、イスラエルの父祖ヤコブの12人中11番目の息子です(創世記41章52節)。ヤコブが子らのために祈るにあたり、ヨセフに最大の祝福を与えました(同49章参照)。それに先立って、ヤコブはヨセフの息子たちのために祈りましたが、長男マナセよりも次男のエフライムを祝福しました(同48章12節以下)。

 エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地を分配したとき(ヨシュア記13章以下)、マナセとエフライムは中央部分を分け与えられています。エフライムとは、「実り豊かな地」という意味ですが、その名のとおり、エフライムは豊かな山林地帯でした。特に、エフライムの嗣業の地は、宗教的、政治的にも重要なところです。

 預言者サムエルは、エフライム山地のシロで祭司エリに仕えました(サムエル記上1章21節以下)。シロには、サムエルの時代までイスラエルの神の契約の箱が置かれていました(同3章3節)。また、エフライムの南境にあるベテルは、ヤコブが神と出会った場所であり(創世記28章19節、31章3節)、イスラエルにとって神を礼拝する重要な場所です。

 また、モーセの後継者でイスラエルの民を約束の地に導き入れたヌンの子ホシェア(=ヨシュア)や、イスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエル王国の最初の王となったネバトの子ヤロブアムは、エフライム族出身です(民数記13章8,16節、列王記上11章26節、12章25節)。

 このように、ヤコブの祝福の祈りは、確かに適えられたのです。けれども、エフライムは今や、その祝福を失おうとしています。それは、彼らが満ち足りて高慢になり(6節)、恩を忘れて神の忌み嫌われる異教の神の像を造ることに没頭し、「子牛に口づけ」、即ち、偶像礼拝への愛を表してさえいるからです(1~2節)。

 ネバトの子ヤロブアムは、王となると直ぐにベテルとダンに金の子牛の像を置き、ベテルで自らいけにえを献げ、香を炊きました(列王記上12章25節以下)。彼に続く北イスラエルの王たちは、ヤロブアムの罪から離れることがありませんでした(同15章25,33節など)。

 それゆえ、冒頭の言葉(15節)のとおり、裁きの熱風が襲い掛かります。「主の風」は、「主の息」と訳すことも出来、人を生かすためにその鼻から吹き込まれた命の息が、ここでは、イスラエルを滅ぼす熱風となったわけです。

 熱風で水が涸れたということは、命を守ることが出来ないということであり、後は荒れ廃れるばかりだということです。自然現象による東からの熱風は、イスラエルに干魃をもたらしますが、「すべての富、すべての宝は奪い去られる」ということから、荒れ野から吹き付ける熱風とは、アッシリアを指していると考えることが出来ます。

 エレミヤが、「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたし(神)を捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることの出来ない壊れた水溜めを」と預言していますが(エレミヤ書2章13節)、ホセアの預言と同じ消息を物語っているわけです。ということは、南ユダは、北イスラエルの滅亡に学ばず、罪から離れられなかったわけです。

 「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」(14節)とは、死の呪い、陰府の滅びがエフライムの上に早く来るように、ということです。けれどもパウロが、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント書15章55節)というとき、それはどこにもない、ということを示しています。

 誰も自分で罪に打ち勝つことは出来ませんでしたが、主イエスによって私たちに勝利をお与え下さったのです。それは、一方的な神の恵みです。主イエスを信じるだけで、その恵みに与ることが出来ます。

 あらためて、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われるように、神の恵みを受けるほどに絶えず謙り、その神の恵みを無駄にしないようにしなければなりません。神に聴き、神に従いましょう。御声がかけられたら、いつでも「はい」と応答する者でありたいと思います。

 主よ、御名が崇められますように。御国がきますように。御心が行われますように。私たちは、主の贖いの御業のゆえに救いの恵みに与りました。、その深い愛と憐れみのゆえに心から感謝致します。私たちを神の御霊に満たし、福音の前身のために用いられる器として下さい。 アーメン