「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた。ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。」 ホセア書12章1節

 12章は、11章と打って変わって、厳しい裁きの言葉で終始しています。ここには、イスラエルの父祖ヤコブについての言及があります。それはしかし、好意的なものではありません。むしろ、マイナス・イメージで語られています。

 1節に、「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもってわたしを取り巻いた」と語り、「ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している」と記しています。ここに、イスラエルを語る言葉として「偽り」、「欺き」という言葉が出て来ました。

 その例示として、イスラエルの父祖ヤコブについて、「ヤコブは母の胎にいたときから兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」(4,5節)と言います。兄エサウから長子の特権を奪い(創世記25章19節以下)、父の祝福を欺き取ったことを言っているわけです(同27章)。

 9節の、「エフライムは言う。『わたしは豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい」という言葉は、ヤコブがハランでたくさんの子どもや家畜などを持つようになったことを示していると思われます(創世記30章25節以下、31章参照)。

 しかし、ヤコブがそのように語ったという事実は、聖書の中に見出すことは出来ません。けれども、その後のイスラエルの態度は、まるで神に向かってそのようにうそぶいているようなものだと、ホセアが語っているわけです。

 一方、イスラエルの偽りに対して、神の真実が示されます。父と兄を欺いて逃亡せざるを得なくなったヤコブをベテルで見出して語られたことを示し(5節:創世記28章10節以下)、「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と招いています(7節)。

 「多くの預言者たちに言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示した」(11節)のも、神の愛と真実の表れです。一人の預言者モーセを遣わして、イスラエルの民をエジプトの奴隷の地から約束の地へ導き上ったのは(10,14節)、彼らが、愛と正義によって生きることが出来るようにするためだ、と語っているのでしょう。

 このように、神が愛と信実をもって語り続け、招き続けておられるのに、イスラエルは偽り、欺き、背き離れてさまよっています。そしてそれは、元来、ヤコブ=イスラエルが偽る者、欺く者だったからだ、と言われているわけです。

 具体的には、2節に、「アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ」とあるように、真の王なる主に頼るのではなく、イスラエルを挟むアッシリアとエジプトという、南北の大国に対する外交政策で国を守ろうとしています。

 また12節に、「ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない」と言われて、ヤロブアムがベテルとダンに配置した金の子牛を拝ませた偶像礼拝の罪(列王記上12章28節以下)が、イスラエルの各地に広げられていることを示します。

 そして、そのような偽り、欺き、背く者を愛し、真実をもって「神のもとに立ち帰れ」と招き続けられた神が、ここでイスラエルの民に、「エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し、その恥辱を彼に返される」(15節)と、最後通牒を突きつけておられるのです。

 神がイスラエルに求めておられるのは、自分の偽りと欺きを認めること、そして、自分自身を神の真実に委ねて従うことです。私たちは、「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり」(エフェソ書2章3,4節)、救いの恵みに与らせて下さったのです。

 私たちが神の子と呼ばれることのために、父なる神が私たちをどれほど愛して下さっているか、考えて見ましょう(第一ヨハネ書3章1節)。神の恵みによって今日の私があるのです。その恵みを無駄にせず(第一コリント書15章10節)、主の業に常に励みましょう(同58節)。

 主よ、どうか霊と真理をもって礼拝する者とならせて下さい。あなたが霊であられ、また真理であられるからです。霊のあるところに自由があり、また、真理は私たちを自由にします。主イエスの愛と恵みが、常に私たちと共にありますように。 アーメン