「わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」ホセア書11章9節


 11章では、神とイスラエルとの関係が、親子関係に比して述べられます。1節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とあります。エジプトの奴隷として苦しめられていたイスラエルを神が憐れみ、養子縁組して、わが子として迎えて下さったのです。そして、絶えず呼びかけ(2節)、手を取って立たせ、歩くことを教え、病のときに看病してやリ(3節)、また、食物を与えました(4節)。

 しかしながら、恩知らずにもイスラエルは神から離れ、バアルに身を屈めました(2節)。申命記21章18節以下に、両親に反抗するわがままな息子は、町の長老に訴え出て、町の全住民によって石を投げつけられると規定されています。ということは、神はイスラエルを子とした親として、どんなに愛を注いでも神の御声に耳を傾けようとしない子イスラエルに石を投げつけ、この悪を取り除く義務があるわけです。

 「彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる」(5節)と言われます。町の全住民なるエジプトやアッシリアが、イスラエルに石を投げつけるということでしょう。

 8章13節には、「今や、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない」とありました。これは、エジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルが、元の奴隷状態に戻されるということで、神の救いが無効となったということを表わしています。

 11章5節で、「彼らはエジプトの地に帰ることもできず」というのは、「彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」という言葉に対応しています。即ち、神に立ち帰ることとエジプトに帰ることが対比されているわけです。そして、その裁きは、エジプトに戻ることではなく、アッシリアによって滅ぼされることであるというわけです。

 しかし、神はイスラエルを愛するがゆえに、イスラエルを裁くことを苦しまれました。愛することは、苦しみを担うことでもあると教えられます。ギリシア語で「憐れむ」(スプランクニゾマイ)とは、腸が痛むという言葉です。私たちの苦しみを、神がご自分の苦しみとして味わわれると言ってもよいでしょう。

 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き離すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか」と言われます(8節)。アドマ、ツェボイムは、ソドムとゴモラ同様、その罪ゆえに神が怒って滅ぼされた町です(申命記29章22節、創世記19章25節)。

 イスラエルに対して、同じ扱いが出来るかと自問され、選びの民に対する憐れみが、主の御心の内に燃え上がります。憐れみゆえの苦しみを担われた神は、冒頭の言葉(9節)のとおり、「もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない」と決心されました。憐れみが怒りを覆い、イスラエルの赦しを決意されたわけです。

 「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)とは、「神は愛です」(第一ヨハネ書4章8,16節)ということですが、罪の赦しは妥協ではありません。甘やかしでもありません。

 赦しの前に裁きがあります。罰があります。神は、罪の裁きと罰を曖昧にしたのではありませんでした。裁きと罰を神がご自分の身に受けられるのです。神が自らに裁きを課すのです。それが神の愛であり、独り子イエス・キリストの十字架なのです。この贖いのゆえに、私たちは赦され、生かされ、愛されているのです。

 私たちは、罪と死の奴隷の苦しみから贖われました。神の子として生きる道が開かれました。私たちのために、永遠に住むべき場所が用意されました。平安のうちに豊かに歩むことが出来ます。神の愛と憐れみに瞬間瞬間感謝しましょう。いつも喜んで歩みたいと思います。祈りを通して絶えず神と交わりましょう。どんなことにも神の導きと勝利を信じて感謝しましょう。

 主よ、あなたの深い愛と憐れみのゆえに、心から感謝致します。絶えず主の慈しみの御手のもとに留まらせて下さい。弱い私たちを助け、御言葉と祈りによって義の道、平和の道に導いて下さい。 アーメン