「ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。」 ホセア書10章15節
 
 14節に、「シャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも撃ち殺したあの戦の日」という言葉があります。ベト・アルベルは、ヨルダン川の東側、マナセ族が嗣業として受けたギレアドの地にある町で、ガリラヤ湖の南東約30kmにありました。シャルマンとは誰のことか、よく分かりませんが、恐らく外国の王の名でしょう。

 また、この破壊と殺戮、つまり戦争が、いつ起こったことなのかも、分かりかねます。しかし、当時の人々はこの戦争のことをよく知っていたのでしょう。だから、それを取り上げたうえで、冒頭の言葉(15節)で、「ベテルよ」と呼びかけているのです。そしてホセアは、「お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる」と言います。

 ベテルは、イスラエルでよく知られた町です。かつてここは、イスラエルの父祖ヤコブが、兄エサウの祝福を奪ったことで、ベエル・シェバからハランの地まで逃れる旅をしている途中(創世記28章10節)、神と出会い、祝福を受けた場所です。

 そのとき神は、「①この地を与える。②数が増し、四方へ広がる。③神が共にいる。④どこに行っても守る。⑤必ずこの地に連れ帰る。⑥約束が実現するまで見捨てない」と約束されました(同13節以下)。そして、神の約束どおり、ヤコブは多くの財産を携え、ハランの地から故郷へ戻って来ました(同31章)。

 神の御言葉は信ずべきです。神の約束は必ず実現するのです。ベテルとは「神の家(ベト=家、エル=神)」という意味ですが、ヤコブは荒れ野で神と出会い、その地をベテルと名づけたのです。

 神と出会い、御言葉を聴くところがベテルであれば、今日のベテルはどこにあるのでしょうか。そうです。どこにでもベテルがあります。私たちが神を求め、御言葉を聴こうとするなら、どこもベテルです。

 ところが、この町が滅ぼされ、「夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」と言われています。

 かつてイスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエルを治めた初代の王ヤロブアムは、金の子牛の像を2体作り、一つをベテルに、もう一つをダンに置きました(列王記上12章28節以下)。さらに、ベテルに異教の神の像を祀る神殿を建て、祭司を配置しました(同31節以下)。

 以後、北イスラエルの王は、神に背く罪を繰り返します。列王記の記者はそのことを、「彼は主の目に悪とされることを行って、ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」と語っています(同15章34節、16章19節、30,31節、22章53節など)。

 ところで、5節の「サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ」という言葉は、ベテルのことを語っているものと考えられます。「ベト・アベン」とは、昨日も学んだように、「邪悪の家」という意味です。ホセアはここで、ヤロブアム以来、北イスラエルの人々は、真の神と出会うべき「ベテル(=神の家)」を、「ベト・アベン(=邪悪の家)」にしてしまった、と断罪しているわけです。

 ベテルの町、ベテルに置かれた神殿がイスラエルを祝福するのではありません。金の子牛がイスラエルを守ることもありません。イスラエルを祝福されるのは、生けるまことの神です。イスラエルの民を守られるのは、真の主なる神のみです。異教の神を祀ってまことの神を怒らせ、その保護を失ったイスラエルは、ホセアが語ったとおり、アッシリアに滅ぼされ、再び王国を再建することは出来ませんでした。

 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)と言われます。主を信じ、愛しましょう。

 主よ、私たちの耳を開いて下さい。主の御言葉に耳を傾け、御旨を深く悟ることが出来ますように。主を信じ、従うことが出来ますように。 アーメン