「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。」 ホセア書9章15節

 冒頭の言葉(15節)に、「彼らの悪はすべてギルガルにある」とあります。「ギルガル」という地名が出て来たのは、本書中これが2回目です。1回目の4章15節では、「お前が遊女であっても ―ユダは罪を犯すな― ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな」と言われていました。

 「ベト・アベン」とは、「邪悪の家」という意味で、そこに異教の神が祀られていることを示しています。その関連で、「遊女」というのは、神殿娼婦のことでしょう。ギルガルにも異教の神が祀られ、神殿娼婦による淫行が行われていたものと考えられます。

 この後、12章12節(口語訳、新改訳は11節)にも、「ギルガル」がもう一度出て来て、そこでは、「ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている」と記されています。こうしたことは、神の忌み嫌われることですから、「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」と言われるのです。

 ギルガルは、かつてモーセによりエジプトを脱出したイスラエルの民が、後継者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入って最初に宿営した場所です(ヨシュア記4章19節)。神はヨシュアにヨルダン川で12の石を拾わせ、宿営した場所に据えさせました。それは、「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためで」です(ヨシュア記4章24節)。

 そして、「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた」と主は言われています(同5章9節)。ここで、「取り除く」と訳されているのが、ガーラルという言葉で、そこから、ギルガルという地名が生まれたということになっています。

 そのような主なる神の御業を記念する大切な場所に、イスラエルの民は異教の神々の祭壇を築いていけにえをささげ、神殿娼婦たちによる淫行を行っていたのです。「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」という言葉は、このことを言っているのです。イスラエルの恥辱を取り除いた場所、神の救いの御業が実現した場所が、神に憎まれる場所、イスラエルの民が捨てられる場所となったのです。

 10節には、「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見出した。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」とあります。バアル・ペオルは、モアブの地にある町です。ペオルは、モアブで礼拝されている神で、民数記25章3,5節に「ペオルのバアル」と記されており、「モアブのバアル」と呼ばれることもあったようです。

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、モアブの娘たちと異教の神の儀式に加わり、神の怒りを招きました。つまり、イスラエルの民は、エジプトを脱出し、約束の地に到着する以前から、神に背く者たちだったわけで、その意味で、「彼らの悪はすべてギルガルにある」ということは、約束の地に入ったとき、その初めから彼らは偶像礼拝の罪を犯していたということでしょう。

 そしてまた、ギルガルは、イスラエルの初代の王サウルが即位したところでもあります(サムエル記上11章14,15節)。そのこと自体に問題があるというわけではありませんが、しかし、イスラエルの民が王を立てるように求めたことについて、サムエルの目には悪と映ったと記されておりました(同8章6節)。

 さらに、サムエルの祈りに主が、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」と語られ(同7節)、続けて「彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」(同8節)と言われています。

 8章4節で、「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない」と言われていましたが、それは、サムエル記上8章の出来事を指しているということも出来ます。

 私たちはどなたを王としているのでしょうか。どなたの言葉に耳を傾け、どなたの言葉に従って歩んでいるのでしょうか。絶えず心の王座を主イエスに明け渡して、王の王、主の主として拝し、その御言葉に聴き従って参りたいと思います。

 主よ、私たちは常にあなたの助けと導きを必要としています。あなたなしに生きることは、到底出来ません。どうぞ私たちの心の真ん中においで下さり、瞬間瞬間、私たちの人生を導いて下さい。そうして、あなたの望まれるとおりの者とならせて下さい。 アーメン