「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。」 ホセア書8章7節


 1節で、「角笛を口に当てよ」と言われます。角笛は、町に危険が迫っていることを警告する警笛として、城壁の上で吹き鳴らすものです。預言者ホセアはこのとき、櫓の上にいる見張り役として、警笛を吹き鳴らすために角笛を口に当てよと、主なる神から命じられているのです。つまり、それほどにイスラエルに危機が迫ってきているわけです。

 それは、彼らが神の契約を破り、律法に背いているからでした(1節)。それも、「わが神よ、我々はあなたに従っています」と言いながら(2節)、神の恵みを自ら退けるという偽善の罪です(3節)。また、神によらず王を立てたこと、つまり、神の指導には従わないということです(4節)。そして、金銀で偶像を造った偶像礼拝を行っていることです(4~6節)。

 冒頭の言葉(7節)に、「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」と記されています。イスラエルの種蒔きは、わが国のそれとはかなり違っています。畑を耕し、畝を起こして、一粒でも無駄にならないように丁寧に蒔くというのではありません。

 種の入った袋を振り回して一帯に種を蒔き散らした後、そこを耕すというやり方をするのだそうです。遠くまで種を蒔くためには、少々風が吹いていたほうが都合がよかったでしょう。「風の中で種を蒔き」とは、そのことです。

 そういう蒔き方をすれば、主イエスが種まきのたとえで語られたように(マルコ福音書4章1節以下)、あるものは道端に落ち、あるものは石地に落ち、またあるものは茨の中に落ちたというのは、さもありなん、ということになります。多くの種が蒔かれたところが耕されて、そこがよい畑となるわけです。よい地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びます。

 しかし、「嵐の中で刈り取る」ということは、せっかく種が芽を出し実っても、収穫前に嵐が来れば、すべてが無駄になってしまう、すべての労苦が水の泡となってしまうということです。これは、イスラエルの人々は国際情勢の風を読みながら、うまく舵取りが出来ているように思っているかもしれないこと、しかしながら、それが一切無駄になってしまうということを示しているのです。

 もっと原文に即して冒頭の言葉を読めば、「彼らは風を蒔いて、嵐を刈り取る」ということになるでしょう。コヘレトの言葉1章14節に、「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」という言葉があり、風を追うことは空しいことと言っています。

 「風」を蒔くことは、風を追うことと同様、何の助けにならない空しいことだということです。「風を蒔いて、嵐を刈り取る」。つまり、「嵐」に象徴される「滅び」を刈り取ることになる、それはまさに自業自得なんだというわけです。

 これは、イスラエルが神に頼らず、時にはアッシリアに、時にはエジプトに、また時には周辺諸国に助けを求めていることを示しています。7章11節に、「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」と記されていました。それは、真の造り主を忘れ、その保護をあてにしないことです(14節)。

 エジプトに助けを求め、アッシリアに頼ることは、風を追っているようなもので何の力にもならず、最後は時代の嵐に飲み込まれてしまいます。かつて栄えたエジプトやアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、モンゴル、イギリス、そして日本、ロシアにアメリカ、どの国が人類の希望となれるでしょうか。どの国が究極的な救いを保障してくれるでしょうか。

 人の力に頼るのは空しいことです。人は誰も、自分ひとりを救うことさえ出来ません。あなたを、私を救ってくれるのは、主イエス・キリストだけです。真の主を信じ、真の主に依り頼みましょう。日々の生活の中で、主を仰ぎ、主に従う道を歩み、確かな実を収穫することが出来るようにしていただきましょう。

 主よ、導きを感謝します。私たちにはもはや、罪の償いの祭壇は必要ありません。主イエスの十字架という確かな祭壇が、主ご自身によって打ち立てられたからです。私たちは十字架の主を仰ぎます。御言葉に耳を傾けます。どうぞ、御霊に満たして下さい。あなたの御言葉がこの身になりますように。 アーメン