「あなたは、この地域から長さ二万五千アンマ、幅一万アンマを測り、そこに最も聖なる聖所を設けねばならない。」 エゼキエル書45章3節


 45章で、エゼキエルの見ている幻は、神殿の境内から新しい都へと広がります。

 嗣業の地を分配するときに、先ず、長さ2万5千アンマ(約11.3km)、幅2万アンマ(約9km)の聖なる区域を設けます。そして、その聖域の南半分が祭司たちの住む場所で(3節)、その中心に縦横5百アンマ(225m)の神殿が設けられ(2,3節)、神殿の場所の周囲に幅50アンマ(22.5m)の放牧地が設けられます(2節)。また、聖域の北半分が神殿に仕えるレビ人の住む場所となります(5節)。

 さらに、その南に幅5千アンマ(約2.3km)、長さ2万5千アンマ(約11.3km)を都の所有地とします(6節)。その所有地の中央に4千5百アンマ(約2km)四方の都が置かれ、その周囲に幅250アンマ(約113m)の牧草地が設けられます(48章15節以下)。それから、聖域と都の所有地の東西に君主の所有地が設けられます(7節)。

 君主の土地を除いて、聖域と都の所有地の面積は、縦横2万5千アンマの正方形です。そのほぼ中央に神殿が置かれ、その南に都が置かれており、そして、この神殿と都を挟み、それを守るように君主の所有地が置かれることになります。

 ここに挙げられている以外の土地は、イスラエルの家とその部族に委ねられています(8節)。ヨシュアのときの土地割譲に従い(ヨシュア記15章以下)、エルサレムがその聖域の置かれる場所と考えれば、聖域の北側にベニヤミン族、都の所有地の南側にユダ族が置かれるということになります。

 土地分配が各部族に委ねられたということは、君主の権限が国全体に及んでいるわけではない、ということを表わしているといってよいでしょう。この土地の配分のされ方から、その役割は絶対専制君主ではなく、封建時代の征夷大将軍のような、神殿と都の守護職といったところでしょう。

 この幻がイスラエルの歴史の中で、文字通りに実現したことはありません。けれども、ここに言い表されているのは、新しいイスラエルは、国の中心に神殿を据え、主なる神を礼拝する民として立てられるということです。

 これは、11章17~20節に、「わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と記されていたとおりです。即ち、神御自身が新しいイスラエルの王となられるのです。

 そして、イスラエルの民は、ペルシア王キュロスによって バビロン捕囚から解放され、帰国を果たした後、ゼルバベルとイエシュアに導かれて、まず神殿を建て、神を礼拝することに取り組みました。これを、エゼキエルの預言に従って実現されたこと、と見ることも出来るでしょう。

 これらのことで、私たちは信仰生活の基本を学ぶことが出来ます。それは、主なる神を信じる信仰が私たちの生活の中心であり、信仰が全生活を支えているということです。主の日(日曜日)に教会に集い、1時間余りの礼拝を守ります。

 また水曜日の朝と夜1時間ずつ、聖書の学びと祈りの集いがあります。この礼拝と祈りの集いが、私たちの一週間の生活を支え、またこの礼拝と祈りの集いが、1週間の務め、生活にリズムとアクセントを与えます。

 そして、私たちは日ごとに聖書を開いて神の御言葉に耳を傾けます。私たちは、神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされているからです。そして祈ります。私たちの生活の中心に神を迎え、その導きに従って歩み、主の恵みと平安に与りましょう。

 主よ、特別に聖なる時間というものは存在しませんが、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として、私たちの時間をささげることも、求められていると思います。導きに従い、今日も主の御言葉と祈りの恵みに与る時間を主に献げます。主との交わりがいよいよ豊かになりますように。御心が行われ、御名が崇められますように。 アーメン