「入り口の上まで、また神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた。」 エゼキエル書41章17,18節


 神殿の幻を見せられているエゼキエルは(40章参照)、その幻の中で、いよいよ、神殿の最も神聖な場所にやって参りました。拝殿(聖所)に入り(1節)、さらにその奥の至聖所の前に進みます(4節)。

 通常、至聖所は、選ばれた大祭司が一年に一度、大贖罪日に入ることを許された場所です(レビ記16章、23章26節以下)。エゼキエルは祭司の家系に生まれた者なので(1章3節参照)、拝殿には入れましたが、至聖所の中に入ることは出来なかったのでしょう。

 そこで、彼を案内している神の使いが至聖所に入って寸法を測り(5節)、エゼキエルに教えます。至聖所の中には何があるのか、ここには何も記されていません。

 冒頭の言葉(17,18節)に、「神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた」という報告があります。これは、ソロモンの神殿にも見られたものです(列王記上6,7章参照)。

 なつめやしの実は食用で栄養価が高く、甘味料としても貴重なものです。この木は、太陽の灼熱にも霜が降りる寒冷にも耐えますが、生育に多量の水分を必要とするため、河川や湖沼の岸辺に好んで生息するので、荒れ地で水の所在を示す徴ともなります(出エジプト記15章27節)。

 また、木の美しさと相俟って、なつめやしは繁栄や優美さの象徴とされています(詩編92編13節、雅歌7章8,9節など)。なつめやしはヘブライ語で「タマル」と言いますが、これは、婦人の名前としてもよく知られています(創世記38章6節など)。

 ケルビムは、「ケルブ」(詩編18編11節)の複数形で、人間の顔、獅子の体、鷲の翼を持つ天的な存在として、描かれています。サムエル記下22章11節(詩編18編11節)には、「(主は)ケルビムを駆って飛び、風の翼に乗って現れる」と記されており、神が移動されるときの乗り物として、神の臨在を表していると考えられます。

 また、神はエデンの園の中央にある命の木を守るために、園の東にケルビムを置かれました(創世記3章24節)。神殿の壁に刻まれた模様で、ケルビムの顔がなつめやしの方を向いているというのは(18,19節)、ケルビムがなつめやしを守っているということでしょう。つまり、創世記との関連で考えると、なつめやしが命の木の象徴とされていることになります。

 かつてエデンの園は、神が人を連れて来て住まわせ、神と相見え、交わることの出来るようにされた場所でした(創世記2章8,15節以下)。ところが、人は神に背いて罪を犯し(同3章1節以下)、そこを追い出されてしまいました(同23節)。その後、神と相見え、交わる場所は、神殿の拝殿の奥の至聖所に限定され、しかもそこは、選ばれた者が一年に一度しか近づけない場所になっていました(レビ記16章参照)。

 勿論、神がその至聖所から外に出ることが出来ない、ということではありません。神は、どこにでもおられます。しかしながら、いつでも、どこででもお会い出来るという存在でもありません。至聖所が拝殿の奥に配置され、それを聖所(拝殿)、内庭、内壁、外庭、外壁で守っているのは、それは汚れた人間が汚れたままで神と触れ合い、交わることが出来ない、神は聖にして聖なる方であるということを示しているわけです。

 しかしながら、主イエスが十字架にかかって死んで下さったとき、神殿の垂れ幕が真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節ほか)。それは、私たちが神に近づく道を開くことでした。主イエスがご自身を贖いの供え物として、私たちを罪の呪いから解放して下さり、主イエスを信じる者が神の子として、神と親しく交わることが出来るようにして下さったのです。

 ヘブライ人への手紙の記者は、垂れ幕とはキリストご自身の肉のことで、主がご自分の肉を裂いて新しい生きた道が開かれたのだから、主を信頼して、真心から神に近づこうと奨めています(10章19節以下参照)。

 主の御言葉に従い、絶えず十字架の主を仰ぎ、信仰をもって神に近づきましょう。その恵みに与りましょう。

 主よ、御子イエスが十字架において、私たちのために命の代価を払われ、救いの道が開かれ、親しい交わりに招いていて下さることを感謝致します。御言葉と祈りを通して、絶えず新たに主の恵みを味わわせて下さい。 アーメン