「彼が内庭を測ると、長さは百アンマ、幅も百アンマの正方形であり、神殿の前には祭壇があった。」 エゼキエル書40章47節


 1節の、「我々が捕囚になってから25年、都が破壊されてから14年目」とは、紀元前573年のことで、それは、エゼキエルが預言者として召されて20年後ということになります(1章1節以下参照)。「その年の初めの月の十日」、即ち3~4月ごろのこと、エゼキエルに主の手が臨み(1節)、幻によってイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に降ろされました(2節)。本書において、イスラエルの高い山は、エルサレムを指しています。

 エゼキエルはそこに、神殿の幻を見ます(5節以下)。この幻が、本書の末尾、48章まで続いています。

 かつて、エルサレム神殿に異教の偶像が祀られていて、そのために神の栄光がエルサレムを去ったのをエゼキエルは見ていました(8~10章)。そして、エルサレム神殿は破壊されました。祭司の家系に生まれ、祭司となるべく備えていたエゼキエルにとって、神殿が汚されていること、それゆえに破壊されてしまうというのは、悔やんでも悔やみきれない思いだったのではないでしょうか。

 ところが今、エルサレムに建設された新しい神殿が見せられたのです。その神殿は周囲を分厚い壁に囲まれており、東、南、北に門があります。門の手前に階段があり(6節)、それを7段上がって門から入ると外庭があります(17節)。そして、その庭の一段高くなっているところに内壁があり、手前の階段を8段上がって(31節)門を入ると、内庭があります(28節)。その内庭の一段高いところに拝殿(聖所)があります(41章1節)。

 冒頭の言葉(47節)によれば、内庭の拝殿の前に祭壇が置かれています。この祭壇で贖いの犠牲をささげてから、神殿の最も重要な場所=拝殿へと近づくのです。ここから10段の階段を上がったところが拝殿の玄関の間、神殿の廊です(49節)。この廊を通って聖所へと入ります。

 エゼキエルは、神殿の西を除く三方にある門の構造や、壁に沿って設けられた神殿で働く者たちの控え室の構造などを、一つ一つ丁寧に調べながら、階段を上がって、次第に拝殿=聖所に近づいて来ました。ここに記されている神殿の構造や大きさなどは、読者にとってどれほどの意味があるのかと思われます。けれども、エゼキエルにとっては大変興奮することだったと思います。それは、神によって建てられた新しい神殿なのです。

 神殿が厚い外壁で囲われ、そして、内壁で外庭と内庭が分けられ、内庭の中に拝殿=聖所が置かれているという構造は、神の神聖を侵すことは出来ないことを示します。神殿の造りの緻密さ、精巧さは、神の御業の素晴らしさを物語っています。そして、7段上って外庭、8段上って内庭、10段上って拝殿と、順次、階段を上って神域に近づくのは、神に近づくときの心の高まりを表しているといってよいでしょう。

 エゼキエル自身が、実際に再建された新しいエルサレムの神殿で礼拝することは考えられません。彼は今、バビロンに捕囚となっています。そして、ペルシアの王キュロスによってイスラエルの民が捕囚から解放されるのは、BC538年です。つまり、これからなお35年という長い年月が必要なのです。

 この幻を見ているとき、エゼキエルは既に50歳になっていました。けれども、神殿の幻が与えられたというのは、神がイスラエルの民と共におられるという徴であり、そして、もう一度、まことの神を礼拝する民が再建されるということを意味しています。8章以下で、イスラエルの罪のために、神がエルサレムの都を離れられることを告げていたように、ここでは、神が再びエルサレムに帰って来られることを告げるのです。

 私たちのような異邦の民が、神を礼拝する新しいイスラエルの民とされるために、主イエスが十字架に贖いの供え物としてご自分を献げて下さいました。それゆえ私たちは、主イエスに感謝して、毎日曜日に主なる神に礼拝を献げるのです。

 拝殿(聖所)には、私たちの祈りを象徴する香壇と、御言葉を象徴するパンを置く机が置かれています。御言葉と祈りを通して至聖所に進み、そこで主の御顔を拝し、主との親しい交わりを持たせていただくのです。

 毎日、聖書を開きましょう。賛美しましょう。祈りましょう。神の御声を聴きましょう。


 主よ、私たちの日毎の礼拝を祝福して下さい。静かに祈る時を祝福して下さい。心から主を誉め讃えることが出来ますように。 アーメン