「今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。」 エゼキエル書39章25節

 38章に続き、39章にも、「メシェクとトバルの総首長ゴグ」(1節)に対する預言が語られています。「メシェクとトバル」はマゴグのことで(38章2節)、マゴグとは、城壁もかんぬきも門もないことに目をつけて、イスラエルを襲って来る敵の総称だと、昨日学びました。総首長ゴグは、マゴグの王です。

 神はゴグを徹底的に裁かれます(3節以下)。イスラエルに攻め寄せた軍隊は、山や野で倒れ、猛禽や野の獣の餌食となります(4,5節)。彼らの国マゴグと海岸地方には、火を送ると言われます(6節)。

 イスラエルの民は、廃棄された武器を薪として7年間燃やし続けます(9,10節)。そして、侵入者たちの埋葬には7ヶ月を要し、谷が死者で埋め尽くされると言います(11節以下)。こうしてイスラエルに終末的な平和が訪れるわけです。薪とされた武器には、イスラエルの民が持っていたものも含まれているのでしょう。

 冒頭の言葉(25節)に、「ヤコブの繁栄を回復する」という言葉があります。これは、象徴的な意味を持つ言葉です。イサクの子ヤコブは、かつて長子の権と父の祝福を、双子の兄エサウから奪い取り(創世記25章27節以下、27章1節以下)、その怒りを買っため(同27章41節)、叔父(母リベカの兄)ラバンの住む、遠いハランの地に逃れます(同43節)。

 ベエルシェバからハランまで約800キロメートル、故郷を離れて一人、徒歩で北の国への逃避行です。それは、どんなに心細いものだったでしょうか。「後悔先に立たず」とはまさにこのことかと、思い知らされたことでしょう。

 ところが、ヤコブは一日歩いて野宿したルズ(エルサレムの北およそ20Km、アイの西にある町、ヘブライ語で「アーモンド」の意)で、神の幻を見、神の声を聴きました。それは、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」という約束でした(同28章15節)。

 ヤコブはその幻を見、御声を聞いたところに記念碑を建てて油を注ぎ、そこをベテル(「神の家」という意味)と名付けました(同16節以下、19節)。神が、孤独と不安の闇に包まれていたところを、祝福の神の家に変えて下さったということです。

 そして、約束どおり神はヤコブを祝福されたので、旅に出たときにはほとんど無一物でしたが、やがて二人の妻に二人の側女、12人の息子、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやロバなどを持つ者となったのです(同29,30章、32章15,16,23節)。それは、神がヤコブに一方的にお与えになった恵みの賜物です。

 ヤコブに、それを受け取る資格や権利があったわけではありません。むしろ、ヤコブのしたことは、神から裁かれるようなことでした。だから、ヤコブは故郷のベエルシェバを離れ、ハランで苦しい経験をしなければなりませんでしたし、母リベカの死に目には立ち会えませんでした。しかし、神はその苦しみを顧みて、ヤコブに恵みをお与えになったのです。

 今ここで預言者エゼキエルが、「ヤコブの繁栄を回復する」と告げているのは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民の苦しみを神が顧み、ヤコブに約束されたとおり、神が民と共にいて、守り、そして、イスラエルの地に連れ帰って下さるという、希望に満ちた約束なのです。

 ここであらためて教えられるのは、その恵みをお与えになる主なる神との交わりです。私たちに必要なのは、国土や財産ではなくて、共にいてお守り下さる神ご自身です。

 神は、「わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。たしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」(28,29節)と言われます。

 神の御顔を仰ぐことを楽しみとし、私たちのうちにお住まい下さる御霊なる神との祈りと御言葉による交わりが何よりも嬉しいこととなるように、信仰の道に精進したいと思います。


 インマヌエルなる主よ、御名のとおり、常に私たちと共にいて、私たちを守り、御国に連れて行って下さるという御約束を感謝します。どうぞ御言葉どおりこの身になりますように。そうして、主こそ神であることをすべての民が知るようにして下さい。 アーメン