「主は彼に言われた。『都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ』。」 エゼキエル書9章4節


 神は、「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」と大声で呼ばわられます(1節)。すると、6人の男たちが、都を突き崩す道具を手にしてやって来ました。その中の一人は、亜麻布をまとい、腰に筆入れを着けていました(2節)。冒頭の言葉(4節)のとおり、主なる神はその一人に、「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」と命じられました。

 他の者たちには、「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。老人も若者も、おとめも子どもも人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ」(5,6節)と言われます。エルサレムの罪のゆえに嘆き悲しんでいる者の額に印がつけられ、その印がない者は、神の御使いに打たれるのです。

 かつて、イスラエルがエジプトを脱出するとき、エジプト人の家と区別をするために、家の鴨居に小羊の血で印をつけました。その印のつけられた家は、神の使いが災いを下さずに過ぎ越し、印のない家に入って、その初子を打ちました(出エジプト記12章参照)。しかし、今度はイスラエルの民が打たれるのです。

 その幻を見せられたとき、エゼキエルは、「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか」(8節)と、神に助けを求めて執り成し祈ります。つまり、エゼキエルは、印を押される者、即ちこの災いを免れることの出来る者が一人もいないのではないか、と考えたのでしょう。だから、「イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」、と尋ねるのです。

 8章で見たとおり、エルサレムの都には、神を怒らせる異教の偶像が満ちていました。ですから、その町に住む民が神に打たれても文句が言える立場でないことは、承知の上です。主が御使いたちに、「慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない」(5節)と言われた言葉も聞きました。それでもなお、彼は神の憐れみを求めて、祈らずにはいられませんでした。このことは、アブラハムがソドム、ゴモラのために、そこに住んでいるロトとその家族のために、執り成した祈りを思い出させます(創世記18章16節以下)。

 そうこうしているうちに腰に筆入れをつけている者が戻って来て、「わたしは、あなたが命じられたとおりにいたしました」(11節)と報告します。印が付けられた者がいるのかどうか報告されていません。けれども、もし印を付ける者が一人もいなかったならば、わざわざ、「あなたが命じられたとおりに致しました」と報告されることもないように思われます。

 かつて、預言者エリヤに対して神が、「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(列王記上19章18節)と言われたことがあります。これは、エリヤが、自分以外には、まことの神を礼拝する者は一人も残っていないと考えて意気消沈していたからです。

 ここに、神のご計画は、すべてを滅ぼし尽くすということではない、憐れみ救うというところにあること、神と心を一つにする者を残そうとしておられることが示されます。エルサレムのために執り成すエゼキエルとユダの長老たちの祈りを受けて、憐れみ深い神は、相当の者たちを残されたのではないでしょうか。

 現在、年間3万数千人も自殺する国は、我が国を除く先進諸国にはありません。その原因は、不景気下の労働条件の悪化にあるという見方がある中で、福祉や教育関連の予算を削り、財政健全化の名目で、消費税率を10%にあげようとする政権。震災と津波に襲われた東日本、既に9ヶ月を経過したというのに、原発事故の放射能汚染も深刻さを増して、なかなか復興支援策を具体的に打ち出せないでいる我が国。その背後で、「戦争の出来る普通の国」作りのため、憲法を改正しようという勢力が、虎視眈々と機会をうかがっている国。そのような現状を思って心痛め、嘆き悲しんでいる人々が多くあることでしょう。

 共に、わが日本のために執り成し祈りましょう。


 主よ、日本を憐れんで下さい。あなたの深い愛と憐れみが、わが同胞の上に豊かに注がれますように。国の指導者たちの周りに、まことの神を畏れる者たちを置き、舵取りを誤ることがないようにして下さい。主の愛と平和が人々の心に満たされますように。 アーメン