「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」 エレミヤ書38章5節

 4節に、「どうか、この男を死刑にしてください」と、預言者エレミヤの処刑を願う役人たちの言葉が記されています。そして、その理由も、エルサレムを守るために残っている兵士や民衆の士気を挫くようなことを言いふらし、平和を願わず、むしろ災いを望んでいるからだ、と説明しています(4節)。王の許しを得、彼らは「エレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり下ろし」(6節)ました。

 37章でエレミヤが監禁されていたのは、書記官ヨナタンの家の地下牢でした(37章16節)。その原語を調べてみると、「地下牢」は、「水溜めの家」(ベイト・ハッボール)という言葉で、王子マルキヤの「水溜め」(ハッボール)と同じ言葉でした。つまり、水溜めを地下牢としてエレミヤ監禁に利用していたということです。書記官ヨナタンにせよ、王子マルキヤにせよ、エレミヤを捕らえ、亡き者にしようと考えているというところでは、違いはなかったといってよいでしょう。

 その水溜めには、「水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ」とあり(6節)、溺れ死ぬことはないものの、泥に埋まって窒息するかもしれませんし、そのまま長期間放置すれば、9節にあるように、飢えて死んでしまうでしょう。けれども、37章と同様、エレミヤはその水溜めから救い出されます。それは、宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレクがエレミヤの助命を嘆願したからです。

 「エベド・メレク」とは、「王の僕」という意味のヘブライ語ですから、宦官になるときに与えられた名前かもしれません。王の周囲にいる人々がエレミヤの命を狙っている中で、この外国人宦官だけがエレミヤに親切をするというのは、とても不思議な光景です。それはまるで、強盗に襲われた人の隣人になったのが、サマリア人だったという、主イエスの「善いサマリア人」のたとえ話のようです(ルカ福音書10章30節以下)。

 ゼデキヤ王は、エベド・メレクの「この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています」(9節)という報告を聞いて、「ここから30人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」(10節)と命じます。ゼデキヤは、ここでエベド・メレクの報告を聞くまで、エレミヤがどのような仕打ちを受けているのか、詳細を知らなかったかもしれません。

 しかし、「どうか、この男を死刑にしてください」(4節)と訴えた役人たちに、冒頭の言葉(5節)のとおり、「あの男のことはお前たちに任せる」(5節)と答えていました。その段階では、王はエレミヤの処刑に加担していたわけです。ただそれは、全面的な賛意ではありませんでした。「王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから」と付け加えている言葉に、王の思いが表われています。つまり、本意ではないが、お前たちがそうしたいというなら仕方ない、といったところでしょう。勿論、だからといって、エレミヤを役人たちの手に委ねた王の責任が不問にされるものではありません。

 後に、水溜めから引き出したエレミヤと密かに会談した際、「あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る」(17節)というエレミヤに、「わたしが恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々のことである。彼らに引き渡されると、わたしはなぶりものにされるかもしれない」と答えています(19節)。

 ゼデキヤは、役人を恐れて自分の思うような政治が出来ず、またユダの民を恐れてエレミヤの言葉に従うことも出来ません。しかし、本来畏れるべき神を畏れず、預言者の語る神の言葉に耳を傾けようとしないので、結局彼は、自分の家族を守ることも(列王記下25章7節)、都を守ることも出来ませんでした(同9節以下)。

 そのようなゼデキヤの態度から、私たちは、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ローマ書11章22節)というパウロの言葉に耳を傾け、あらためて人を恐れるのではなく、神を畏れるべきこと、御言葉に耳を傾け、その慈しみの翼のもとに留まるべきことを肝に銘じたいと思います。

 主よ、あなたこそ、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」です。そのお方が、しかし、髪の毛までも一本残らず数えるほどに、私たちに絶えず目をとめ、慈しみを与えようとしていて下さいます。主の慈しみのもとに留まり、御言葉の導きに従って歩むことが出来ますように。 アーメン