「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」 エレミヤ書31章31節

 冒頭の言葉(31節)に、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」と記されています。この預言の言葉が、主イエス・キリストにおいて成就しました。ルカ福音書22章20節に、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と語られた主イエスの言葉が記されています。これは、キリストが十字架で流された血潮によって、主なる神と、主イエスを信じる人々との間に、新しい契約が結ばれるという表現です。ここに語られている「新しい契約」という言葉から、「新約聖書」(新しい契約の書)なる言葉が作られたのです。

 新しい契約があれば、古い契約もあります。それが記されているのが、「旧約聖書」(古い契約の書)です。古い契約は、エジプトを脱出したイスラエルの民と主なる神との間で、モーセがシナイ山に登ったときに結ばれました。そしてその契約書として、石の板に記された十戒を授かりました(19章5節、24章、31章18節、34章)。

 けれども、イスラエルの民はそれを守ることが出来ませんでした。「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず」(32節)という、結婚関係を思わせる言葉遣いから、その関係を破壊する姦淫の罪が行われたことが示されます。即ち、神ならぬものを神としたということです。ですから、「彼らはこの契約を破った」(32節)という言葉は、単に契約内容を蔑ろにしたということではなく、契約を無効にする違反をあえて行う罪を犯したということを意味しているのです。そのゆえに、イスラエルとユダの民はその家を出され、主人たる神の保護を失ってしまったため、アッシリア、バビロンとの戦いに敗れ、捕囚とされるという結果を招いてしまったわけです。

 ところが、「新しい契約を結ぶ日が来る」と主が言われます。ということは、古い契約を破棄させた罪が赦されたということです。新しい契約の新しさとは、契約内容の新しさではありません。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)というのは、旧約においても、新約においても語られる契約の内容です(創世記17章7,8節、出エジプト記19章5,6節参照)。つまり、契約の新しさとは、まず、授けられ方にあります。古い契約は、石の板に記されていました(十戒:出エジプト記31章18節)。けれども、新しい契約は、その律法が人々の胸の中に授けられ、心に記されます(33節)。それは、新しく神と契約を結ぶ民は、神の御言葉に従うことが、彼らの心にある思いとなる、ということです。

 この契約が、主イエスによって成就したと記しました。そして、主イエスを信じる者は誰でも、この新しい契約を結んだ者とされます。そこでは、民族としてのユダヤ人であるか、そのために割礼を受けたものであるかどうかは、問題になりません。ローマ書2章29節に、「文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです」とあり、また、フィリピ書3章3節に、「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と記されています(コロサイ書2章11節以下も参照)。

 ただ、新しい契約が心に記されて、お互いに「主を知れ」といって教えることはない、と言われますが(34節)、主イエスを信じている者は、御言葉を教わる必要がない人々ではありません。むしろ、信仰に熱心な者ほど、御言葉を学びたい、さらに深く主の御心を知るために教えが必要だ、と言います。それは、「主を知る」ということが、単なる知識としてではなく、主を愛し、主との交わりをとおして、人格的に相手を理解するということだから、主を愛すれば愛するほど、交わりを持てば持つほど、さらにそれを深めたいと思うのです。その意味で、契約が心に記されるとは、主イエスを信じて、主イエスを私たちの心の中心、日々の生活の王座にお迎えすることなのです。


 主よ、私たちに信仰の恵みをお与え下さり、感謝致します。私たち人間が神の律法に完全に従うことは不可能です。しかし、人には出来ないことも神には出来ると言われた主イエスを信じ、日毎に主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みます。御心を行わせて下さい。 アーメン