「行け、これらの言葉をもって北に呼びかけよ。背信の女イスラエルよ、立ち帰れと、主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと、主は言われる。」 エレミヤ書3章12節


 3章には、「立ち帰れ」と呼びかける言葉が4度出て来ます(7,12,14,22節)。このように繰り返し呼びかけられるということは、神がユダの民が立ち帰るのを、諦めず憐れみをもって待ち続けていて下さるということです。しかしながら、イスラエルはこのような神の呼びかけにも拘らず、神に立ち帰ろうとしていない、ということです。

 1節に、「もし人がその妻を出し、彼女が彼のもとを去って他の男のものとなれば、前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのに、わたしに戻ろうと言うのかと、主は言われる」、とあります。妻が夫に離縁されて他の男と再婚すれば、死別や離縁などになっても、前の夫ともう一度ヨリを戻すことは出来ません(申命記24章1節以下)。

 この箇所で、夫は神ご自身、妻は南ユダ王国の民を指しています。彼らは、神を離れ、自分の思いのままに欲に引かれて淫行にふけって来たと言われます。であれば、再び立ち帰ることは不可能ということになります。そう語られるのは、神の「立ち帰れ」という呼びかけに応えるのではなく、今日はこちら、明日はあちらと自分の好きなように相手を変え、それに飽きたら元に戻ろうかなどというような振る舞いは、許されるものではないということです。

 6節以下に、南ユダの裁きが記されます。「ヨシヤ王の時代」(6節)、国中の偶像を廃棄し、ただ主にのみ仕えるという宗教改革が行われました。北イスラエルは、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされました。南ユダはそのとき、ヒゼキヤがイザヤに執り成しを願い、その結果、難を逃れました。苦しいときの神頼みという状況でしたが、それでも、憐れみ深い主はヒゼキヤの祈りを聞き届けて下さったのです。

 ところが、ここで神は、「背信の女イスラエルが姦淫したのを見て、わたしは彼女を離別し、離縁状を渡した。しかし、裏切りの女であるその姉妹ユダは恐れるどころか、その淫行を続けた。彼女は軽薄にも淫行を繰り返して地を汚し、また石や木と姦淫している。そればかりでなく、その姉妹である裏切りの女ユダは真心からわたしに立ち帰ろうとせず、偽っているだけだ」と言われ(8~10節)、「裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」とさえ語られます(11節)。つまり、ヒゼキヤ王やヨシヤ王による南ユダの宗教改革は、外面的なものであって、それは真心からなされているものではなかった、ここまで好き勝手して、結婚生活を維持することは出来ないと、厳しく非難しているのです。

 冒頭の言葉(12節)で、「背信の女イスラエルよ、立ち帰れ」と招かれるというのは、どういうことでしょうか。北イスラエルは南ユダの人々よりもましだから、そのように招かれたということではないでしょう。続く13節に、「お前の犯した罪を認めよ」と言われているからです。彼らが招かれるのは、彼らの内にその資格があるからではなく、イスラエルの法では不可能と言わざるを得ない復縁を、神ご自身がその深い憐れみをもって許されるということです。

 そして、北イスラエルが神の憐れみによって招かれたということは、もちろん南ユダをも憐れまれるということでしょう。この言葉は、北イスラエルに向けられているようで、南ユダに悔い改めを求めておられるのです。

 ただ、聖なる神の御前に、血の贖いなしの赦しはありません。神は、神に背いてはなはだしい罪を犯したイスラエルの贖いの供え物として、苦難の僕を遣わされました(イザヤ書53章参照)。苦難の僕とは、ご自身の独り子イエス・キリストのことです。私たちがまだ罪人であり、敵でさえあったときに、御子の死によって私たちの罪を贖い、神と和解させて下さったのです(ローマ書5章8節以下)。この想像を絶する神の深い愛と憐れみのゆえに、心から御名を崇めます。

 この愛と憐れみに応えて罪を悔い改め、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ、主の手足として、主の使命のために用いて頂きましょう。


 主よ、御名を崇め、感謝と賛美をささげます。瞬間瞬間、あなたの憐れみによって支えられ、生かされているからです。その恵みをいたずらに受けるのではなく、十字架にかかられた主イエスの僕として、神の愛に心一杯満たされて、主の恵みを証しし、主の福音を宣べ伝える者とならせて下さい。 アーメン