「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」 イザヤ書62章1節

 62章も、前章に続き、エルサレムの回復がうたわれています。シオン、神の都エルサレムは、「捨てられた女」と呼ばれました。神の都としての栄光を失い、長い間、「荒廃」したままになっていました(4節、60章14,15節)。しかし主は、見捨てられた妻のように失意落胆の中にいるイスラエルの民に呼びかけ、救いを約束されます。

 かつて、イスラエルの民はバビロンにおいて、捕囚として大変な苦難を味わいました。エルサレムの都から遠く離され、神殿は破壊されてしまいました。この苦しみから誰が解放してくれるのでしょうか。そもそも、バビロンの神マルドゥク(エレミヤ書50章2節)やネボ(イザヤ46章1節)は、イスラエルの神、主に優っているのではないでしょうか。

 そのような嘆きの中にいた民に神の慰めの言葉を告げたのが、第二イザヤです(40章1節以下)。彼は、バビロンの神々は、人間が造ったもので、語ることも動くことも出来ず、薪として燃やしたとき、暖かさを与えてくれるだけのものと皮肉ります(44章9節以下)。預言者がそう語る背景に、バビロンの人々が捕囚の民を嘲り、おのが神を誇るということがあったのでしょう。

 その後、ペルシアがバビロンを倒し、イスラエルの民は帰国を果たすことが出来るようになりました。それは、民にとって、夢を見ているのではないかといった出来事でした(詩編126編1節)。キュロス王が救い主、メシアに見えました(45章1節など)。けれども、帰国を果たすことが出来たものの、未だ、約束の地は彼らに祝福をもたらしてはいません。むしろ、強大なペルシアの力の前に、卑しめられています。

 かつて第二イザヤは、召命記事で、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」といい(42章2節)、また、捕囚の民の苦しみに寄り添い、癒すお方として御自分のことを、「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のように喘ぎ、激しく息を吸い、また息を吐く」と言われていました(同14節)。主なる神は、自分の功績などを声高に宣伝するようなお方ではない、黙して語らない中に、救いの業を進められるお方であることを、示していたのです。

 しかし、帰還したイスラエルの民にとって、その沈黙が救いの徴とは見ることが出来ませんでした。むしろ、救いを求める民の声に神が応えて下さらない、自分たちは神から捨てられたのではないかといった疑いが、広がって来ました(64章9節以下、11節参照)。その声に応えるように語られているのが、冒頭の言葉(1節)です。

 預言者が、「彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」、つまり、神とイスラエルとの関係が正され、その救いが実現し、それを、諸国の人々が見るようになるまで、語り続けるというのです。そこに、神の御言葉に対する預言者の確信があります。

 そのときイスラエルは、「捨てられた女」ではなく、「夫を持つ者」(ベウーラー)と呼ばれます(4節)。神がイスラエルにとって、花嫁を守る花婿となって下さるのです。それは、イスラエルの民の功績などではありません。2節に、「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれる」とあります。即ち、主なる神の一方的な恵みによるものであることを示しています。

 黙示録21章2節に、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整え、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」とあります。同9節に、「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せて上げよう」と言い、それが、聖なる都エルサレムのことと、同10節に記されています。

 ヨハネ3章29節の洗礼者ヨハネの言葉と併せ、教会は、聖なる都、新しいエルサレムのひな形といってよいでしょう。私たちに救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせ、輝きの冠をかぶらせ、宝石で飾って下さいます(61章10節)。見えるところでは、未だ困難の中かも知れません。神が沈黙し、あるいは眠っておられるように見えるかも知れません(マルコ4章38節参照)。けれども、常に共にいて下さる主に平安を見出し、希望と喜びをお与え下さる主の恵みを、「口を閉ざさず」人々に告げ知らせていきたいと思います。

 主よ、御言葉と祈りを通して、常に主との親しい交わりにお導き下さり、有り難うございます。主の深い御心に触れ、心が主の平安で包まれます。聖霊に満たされ、力を受けて、その恵みを喜びと感謝をもって、人々に告げ知らせることが出来ますように。 アーメン