「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。」 イザヤ書48章18節

 48章は、ヘブライ語原典で見ると、「聞け」(シェマー)で始まっています(1節)。イスラエルの民は、毎朝晩、「聞け、イスラエルよ」(シェマー・イスラエル)で始まる、申命記6章4~9節の御言葉を唱えます。イスラエルの民は、神の御言葉で一日を始め、御言葉で一日を終わるのです。つまり、イスラエルは、神の御言葉を聞く民であるということです。

 そして、この48章には、「聞く」(シャーマー)という動詞が、合計11回(1,3,5,6②,7,8,12,14,16,20節:新共同訳では、「知らせる、告げている」と訳されているものもあります)出て来ます。イザヤがどれほど、神の御言葉を聞くことを大切に考えているかということを、窺わせる数です。そして、それはまた、ヤコブの家、即ちイスラエルの民が神の御言葉を聞くことを、イザヤが言うようには大切にして来なかったということも、示しています。

 実際、4節には、「お前が頑固で、鉄の首筋を持ち、青銅の額を持つことを知っているから」と記されていて、かつてイスラエルが厚顔で強情であったことを非難しています。また8節には、「お前は聞いたこともなく、知ってもおらず、耳も開かれたことはなかった。お前は裏切りを重ねる者、生まれた時から背く者と呼ばれていることをわたしは知っていたから」と記されており、これは、イスラエルの民がエジプトから救い出されたときから、御言葉に聞き従わない、神に背く者であったということです。

 神は、祭司らを立て、預言者を送って神の御言葉に耳を傾け、その掟を守るようにと招かれましたが、イスラエルの王とその民は、聴き従おうとはしませんでした。それゆえ、神の裁きを受け、亡国の憂き目を見る結果となったのです。

 そのような頑固で厚顔な民、生まれながら神に背く者であったイスラエルの民に対して、主は「これから起こる新しいことを知らせよう」(6節)と言われ、「わたしのもとに近づいて、聞くがよい」(16節)と招かれます。そして彼らに、「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え」(20節)と命じられました。

 「これから起こる新しいこと」とは、イスラエルの民がかつてエジプトを脱出したように、バビロンを脱出することであり、そして出バビロンの際には、出エジプトのときとは違って、神の御言葉に聞き従い、その感謝と喜びを全世界に告げ知らせる神の僕の使命を果たすということです。

 神は、「わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる」(17節)と告げ、さらに、冒頭の言葉(18節)のとおり、「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」と語られます。ここで、「平和」(シャローム)とは、単に争いがないということではありません。健康や安全、そして繁栄という意味もあります。また、「恵み」と訳されている言葉(ツェダカー)は、本来「正義」を意味する言葉ですが、救いや勝利という意味を含んでいることから、ここでは、「恵み」と訳されているわけです。また、「大河」(ナハル)は、詩編93編3節では、「潮」と訳されています。

 パレスティナには、雨季のときだけしか水が流れない、乾季には川床まで乾いてしまう「ワーディー」と呼ばれる水無し川がたくさんあります。これまでのイスラエルは、まさにこのワーディーのようなものだったと思います。即ち、短い期間、神に聴き従って、豊かな繁栄を味わいますが、ことが順調に進むとやがて神から離れ、その結果、恵みが枯渇してしまうのです。「平和は大河のように、恵みは海の浪のように」とはほど遠い、砂漠や荒れ野が広がっているのです。

 だから、主の言われるとおり、その戒めに絶えず耳を傾け、ただ聴くだけでなく、その御言葉に従って歩みましょう。そのとき、恵みの流れは、ナイルやチグリス・ユーフラテスのように、尽きない豊かな流れとなるのです。

 天のお父様、日毎に御言葉を聞かせて下さり、感謝します。主イエスが、「聞く耳のある者は、聞くがよい」と言われました。「聞く耳のある者」とは、聞いて行う意思のある者のことでしょう。どうか、聞くだけで終わるのでなく、聞いて行う者とならせて下さい。恵みを証しすることが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン