「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」 イザヤ書41章10節

 41章には、「恐れるな」という言葉が、3度(10,13,14節)記されています。ということは、イスラエルの民が恐怖に戦いている現実があるわけです。そして、その都度、「あなたを助ける」と神が語られます。恐れないでいられる根拠は、主なる神の助けが与えられるということです。

 そのとき、イスラエルの民が恐れていたのは、バビロンの東、即ちペルシアにおいて奮い立った王キュロスのことでしょう(2節以下参照)。キュロスはエラムの出身ですが、メディア、リディアをはじめ周辺諸国を征服しました。当時、バビロンの奴隷となっていた民は、次第に迫ってくるペルシアの脅威に、恐れを抱かずにはいられなかったのです。

 これまで、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、アッシリアを滅ぼしたバビロンによって南ユダは滅ぼされました。バビロンがペルシアに滅ぼされるようなことがあれば、バビロンに捕囚とされているイスラエルの民の運命はどうなるのでしょうか。

 しかし、キュロスを奮い立たせ、「国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは」(2節)、主なる神です。つまり、キュロス王は神の手先なのだから、恐れる必要はないというわけです。キュロスはバビロンに無血入城し、そして、イスラエルの民を解放しました。イスラエルの民にとって、全く思いがけない展開になったのです。

 40章27節に、「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と」、と語られていました。50年に及ぶ捕囚の生活は、帰国の希望を失わせるほどの耐え難いものであり、イスラエルの民は、神に見捨てられた、忘れ去られた、と嘆いていたわけです。

 けれども、神はイスラエルを見捨ててはいなかったのです。神は、「あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」(9節)と言われます。すなわち、ただバビロン捕囚から救われた、というのではなく、神の使命のために再び選ばれ、立てられたというわけです。

 希望を失っていた捕囚の民に何が出来るのでしょう。14節には、「虫けらのようなヤコブよ」という言葉があります。かつて、出エジプトの民が、カナンの地を偵察した際、そこに住む先住民に恐れをなして、彼らを巨人と言い、そして自分のことはイナゴのように見えたと言いました(民数記13章32,33節)。イスラエルにとって、バビロンもペルシアも巨人で、その力の前に、イスラエルは虫けらのような存在と考えていたことでしょう。しかし、その「虫けらのようなヤコブ」を、神は捕囚の地から御自分の使命のために選んで呼び出し、立てたのです。

 パウロが、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力なものとするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(第一コリント1章26~29節)と語っていますが、イスラエルが選ばれたのは、ここに語られた通りの状況と考えてよいでしょう。

 「恐れるな」と言われて、それで一切の恐れが消え失せるわけでもないでしょう。だから、くりかえし、「恐れるな」と言われるのです。そして、繰り返し神の助けを経験するのです。神がイスラエルと共におられ、恐れる民に平安と導きを授けて下さるのです。

 主イエスは、「インマヌエル」と唱えられるお方です(マタイ1章23節)。それは、神が私たちと共におられる」という意味です。主イエスがいつも私たちと共におられ、内におられて、私たちを慰め、励ましていて下さいます。主に信頼し、その御言葉に従って歩みましょう。


 主よ、あなたの導きを感謝します。私たちを贖い、神の民の一員として下さいました。私たちの体を、神に喜ばれる生きた聖なる供え物としてあなたにささげます。それこそ、日毎に私たちのなすべき礼拝だからです。絶えず聖霊の真理なる主イエスを通して、主を崇めさせたまえ。 アーメン