「そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」 イザヤ書27章5節


 27章は、「イザヤの黙示録」(24~27章)の最後の章で、ここに、「その日」という言葉が4度語られます(1,2,12,13節)。

 最初の「その日」は1節で、主が逃げる蛇レビヤタンを罰し、海にいる龍を殺すと語られます。「レビヤタン」は、わにのような怪獣で(ヨブ記40章25節以下参照)、海に住んでいます(詩編104編26節)。主に罰を受け、殺されるという表現から、神に逆らう悪しき存在で、悪魔、悪霊の象徴と考えられています。

 ヨハネ黙示録21章1節で、新天新地では、「もはや海もなくなった」と言われていますが、これは、美しい海が干上がってしまうというようなことではなく、旧約テキストとの関連で、海に住む悪しきレビヤタンが滅ぼされるという意味に解釈すべきでしょう。となれば、イザヤの語る「その日」とは、過去の歴史的な出来事を指しているのではなく、世の終わりに主がご自身の主権をもって行動される日を指している、ということになります。

 2番目の「その日」は2節で、「見事なぶどう畑について喜び歌え」と言われます。イザヤは5章にも「ぶどう畑の歌」を記していますが、それは、喜びの歌ではなく、ぶどう畑を呪う歌でした。同7節には、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」とありました。そして、イスラエルが主なる神の期待を裏切り、悪を行うので見捨てられ、茨やおどろが生い茂るようになると言われていたのです(同6節)。

 しかるに、その日には、「常に水を注ぎ」(3節)、「茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたし(主なる神)は進み出て、彼らを焼き尽くす」(4節)と言われます。それで、「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」(6節)というのですから、5章で歌われていた呪いが祝福に変えられ、喜びの歌となっているわけです。

 第3の「その日」は12節で、「ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、主は穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人よ、あなたたちはひとりひとり拾い集められる」と言われます。「エジプトの大河」と言えば、ナイル川のことでしょう。メソポタミア地域からエジプトまで、その広い地域が主なる神に打たれるというのです。

 ここで、聖書で「エジプトの川」というときには、ナイルではなく、通常、イスラエルとエジプトの間の国境線を流れるワーディー・アル・アリーシュのことを指しています。創世記15章18節で、主なる神がアブラハムと契約を結んで、「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」と言われているのが、それです。このアブラハムとの契約は、ダビデ・ソロモンの時代にも実現してはいません。世の終わりの日に、神に背く悪しきものが滅ぼされた後、それが完成するということでしょう。

 最後は13節で、「その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ、アッシリアの地に失われて行った者も、エジプトの地に追いやられた者も来て、聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」と語られています。「アッシリアの地」という表現で、アッシリアに滅ぼされて連行された北イスラエルの民(列王記下17章6節)だけでなく、バビロンの捕囚となり、あるいはその難から逃れるためにエジプトに下った南ユダの民も、帰還することが表明されています。それによって、別れ散らされていた、神を礼拝する民イスラエル12部族を再建するのです。

 このように語られる「その日」を迎えるために、冒頭の言葉(5節)で主なる神が民に向かい、「わたしと和解するがよい」と、繰り返し呼びかけておられます。そういえば、ローマ書12章1節で、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」という言葉の「憐れみ」は、原文では複数形が用いられていました。憐れみの豊かさの表現なのでしょうけれども、繰り返し憐れみをもって呼びかけられ、勧められているとも読めます。主の呼びかけに従い、主と和解して呪いを祝福に変えていただき、主を礼拝する神の民として造り上げて頂きましょう。

 主よ、あなたの深い憐れみにより、主イエスを信じて救いの恵みに与らせていただきました。御言葉と聖霊の導きにより心強められ、御前に聖なる者となり、清い生活をすることが出来ますように。私たちをお互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせて下さいますように。 アーメン