「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。」 イザヤ書13章6節

 周辺諸国に対する預言が記されている第二部(13~27章)の初めに、「バビロン」に対する預言が記されています(1節)。「バビロン」の原語は「バベル」と言い、創世記11章1節以下の「バベルの塔」物語の「バベル」と同じ言葉です。

 バビロンは、アッシリア帝国の南東部、チグリス・ユーフエラテス川の下流域に位置しています。紀元前627年にアッシリアから独立し、その後勢力を拡大して、前612年にはニネベの町を占領、さらに610年にアッシリア帝国最後の要塞ハランを占領して、アッシリア帝国の歴史に幕を引きました。

 その後、前605年にシリアに駐留していたエジプト軍を撃破し、さらにペリシテ最大の都市アシケロンを占領、その勢いを駆ってエルサレムに迫ってきました。ユダヤの王ヨヤキムは、迫ってきたバビロン軍に降伏しました。前601年のことです。その3年後、反旗を翻したユダヤに再びバビロンの大軍が押し寄せました。バビロン軍がエルサレムまでやって来る直前、ヨヤキムは死去し、その子ヨヤキンが王座に着きました。ヨヤキン王はすぐに降伏し(前597年)、ユダの上流階級の人々と共に、捕囚としてバビロンに連れて行かれました。これが、第一次バビロン捕囚です。

 その10年後の前587年、バビロンの王によってヨヤキン王に代わって王位につけられたヨヤキンの叔父ゼデキヤが、バビロンに反旗を翻したため、バビロン軍に攻められて町が破壊され、神殿も焼かれ、王をはじめ町に残っていた者は皆、捕囚として連れ去られました(列王記下25章)。これを、第二次バビロン捕囚といいます。かくて、イスラエルはバビロニア帝国の属州となり、ダビデ王朝は滅亡しました。

 そのバビロンが神の怒りを招き、裁かれています。イザヤが預言した当時、バビロンを知っているユダヤ人は殆どいなかったのではないでしょうか。それは、バビロニア帝国が登場する百年も前のことだったからです。けれども11節に、「わたしは、世界をその悪のゆえに、逆らう者をその罪のゆえに罰する。また、傲慢な者の奢りを砕き、横暴な者の高ぶりを挫く」とあり、その悪の世界を代表するものとして、バビロンの名が最初に掲げられています。

 ただし、このイザヤの預言は、「バビロンについての託宣」と言われていますが、直接バビロンの人々にむけて語られたわけではありません。これを聞いたのは、ユダヤの人々です。ユダヤの人々も、ここに語られている、「傲慢な者の奢り、横暴な者の高ぶり」という悪と無縁ではなかったのです。バビロンが悪の代表として裁かれるならば、本来、神に礼拝をささげる民として選ばれていたイスラエル、ユダヤの人々は、彼らと同じ罪の下にいて、どれほどの罰を蒙ることになるのでしょうか。

 北イスラエル王国はアッシリアによって、南ユダ王国は、バビロンによって滅ぼされました。預言者は、それをイスラエルの民の背きの罪に対する神の裁きと考えました。今ここに神の怒りを招き、裁かれているバビロンが、南ユダ王国を罰する神の道具として用いられたわけです。

 冒頭の言葉(6節)に、「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる」とあります。北イスラエルイスラエルにとってはアッシリア、アッシリアや南ユダにとってはバビロン、そして、バビロンにとっては17節の「メディア人」、即ちペルシャ帝国が、「破壊する者」でした。「破壊する者」(ショード)は、「シャーダド」(破壊する、荒らす、暴力を振るう)という動詞の名詞形ですが、「全能者」(シャダイ)が「破壊する者」(ショード)が送るというのは、語呂合わせ以上の意味を感じます。即ち、神はその全能をもって万物を創造されましたが、傲慢と横暴で御旨に背くものを神が滅ぼされるわけです。

 今日、主イエスが十字架で死なれ、三日目に甦られたことを記念して、日曜日を「主の日」と呼んでいます。「全能者」が世界の悪を代表するものとして、御自分の独り子イエスを十字架につけて滅ぼされました(ローマ書4章25節、2コリント書5章21節など)。それによって私たちの罪が赦されることになり、さらに死の力を打ち破って甦られたことで、私たちに永遠の命の希望をお与え下さったのです。泣き叫ぶべき「主の日」を、喜び感謝する日に変えて下さった神の深い憐れみと慈しみに感謝しましょう。

 主よ、感謝します。あなたの憐れみは永久に堪えることがありません。私たちも世界の悪の中におり、そして私たち自身が悪を行う者でした。けれどもその罪を赦し、御子イエスの血によって清めて下さいます。常に御前に謙り、十字架の主を仰がせて下さい。その御声に耳を傾けさせて下さい。 アーメン