「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて。」 コヘレトの言葉12章13節

 11章9節以下の「若者」に対する格言の連なりで、著者は、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(1節)と語り始めています。そして、「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」と付け加えています。ここで、高齢になることを「苦しみの日々」と言い、「『年を重ねる事に喜びはない』と言う年齢」と語っていることから、著者は、高齢になると喜びが失せて苦しみの日々が来る、と考えているようです。

 これは、「あなたの父母を敬え、そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト記20章12節)などといった言葉に示される、長寿は神から与えられる祝福とする立場とは対立するような考えです。これは、二者択一の問題ではなく、高齢というコインの表と裏の顔ということなのでしょう。

 喜び楽しんで生涯をすごすことが最高の幸せと語ってきた著者にとって(3章12節など参照)、喜びが失せるということは、まさに生き甲斐を失うことでしょう。それゆえ、「太陽が闇に変わり、月や星の光が失せ」(2節参照)といった表現から、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(7節)と結ばれているわけです。

 本書で、神を「(お前の)創造主」(ボーレイハー)と呼ぶのはここだけです。少し読み方を変えて、これを「妻」や「井戸」と読んだり、あるいはまた「墓穴」と読み替える学者もいます。文脈を考えれば、「墓穴」、つまり「死」を考えよという読み方は、一理あるところです。しかしながら、直前の11章9節で、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい」と語っていました。喜べと言った直後に、空しさをもたらす死を心に留めよと言うのは、矛盾しているように思われ、少々考え難いところです。

 ここではやはり、空しさが訪れる前に、苦しい日々がやって来る前に、創造主なる神に心を留めよと、著者は語っていると考える方がよいのではないでしょうか。たとい高齢となって喜びが失せて苦しみがやって来ても、創造主に心を留めるならば、希望と平安に与ることが出来るでしょう。それは、創造主が私たちを心に留め、私たちの業を受け入れて下さるからです(9章7節参照)。

 そして、冒頭の言葉(13節)のとおり、「結論」として、「神を畏れ、その戒めを守れ」と命じています。「戒め」(ミツヴァ)を旧約聖書の「律法」(トーラー)と考えるならば、これは、コヘレトの思想にはなかったことと言ってよいと思います。8章5節では、「(王の)命令」(ミツヴァ)と訳されていますので、「飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」(2章24節)、「自分で食べて、自分で味わえ」(同25節)などといった、本書(コヘレトの言葉)に記されている命令を指していると考えれば、これは、私たちが聞くべき言葉ではないでしょうか。

 著者が探求して得た絶対確実な真理は、「人は死ぬ」ということでした。すべてを空しくする死が最も確実なことというのは、皮肉のようですが、しかし、人の死ぬ時を定められたのは、神です(3章2,11節)。神は、死をさえ支配しておられるのです。

 そして、死は私たちの終りを意味してはいません。使徒パウロが、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(第一コリント書15章54~58節)と語っています。

 主イエスを信じ、主に委ねられた賜物を用いて、今日なすべき務めに励みましょう。主は私たちの業をすべて受け入れて下さり、どんなマイナスも益に変えられるので、私たちの労苦が無駄になることはないのです。ハレルヤ!

 主よ、あなたの恵みと導きに感謝致します。主を畏れ、御前にひれ伏して御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことを喜び、楽しむことが出来ますように。絶えず目を覚まし、信仰に基づいてしっかりと立ち、何事も愛をもって行うことが出来ますように。 アーメン