「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。」 コヘレトの言葉5章3節

 冒頭の言葉(3節)で、「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない」という言葉は、山上の説教で主イエスが、「昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ』と命じられている」(マタイ福音書5章33節)と語り出されたことを思い出させます。「誓いを果たすのを遅らせてはならない」という命令の言葉が記されているということは、誓いを果たさない人々がいるということです。

 本書の著者はこの言葉で、誓いを果たさない者、誓いの実行を遅らせる者のことを、「愚か者」と呼び、それでは神に喜ばれないと言います。これはむしろ、「怒りを買う」ということでしょう。そして、「誓いを果たさないなら、願をかけないほうがよい」と言っています(4節)。確かに、願かけをしてそれがかなえられたら、これこれの供え物(これを満願の献げ物と言う)をしますという約束をしておきながら、それを実行せず、神の怒りを買って罰を蒙るくらいなら、願かけをしないほうがよかった、誓わなければよかったということになるでしょう。

 ところで、主イエスは先の言葉(マタイ5章33節)に続けて、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」(同34節)と言われました。つまり、旧約聖書の命令の上を行って、「守れないなら誓うな」ではなく、「一切誓いを立ててはならない」と言われるのです。これは、どうせ皆約束を守れないのだから、守れない約束をするのは無駄なことだ、それならむしろ、一切誓ってはならない、と仰っているということではありません。

 そもそも、私たちが誓いを立てるのは、相手に対して約束したことが真実、確かであることを保証しようとするからです。もしも私たちが、いつも真実に語り、語ったことを常に真実に行っていれば、それが信用されて、あらためて「誓う」などという必要はなくなります。誓約書を書くよう求められるということは、私たちの言葉が信用されていない証拠ですね。主イエスは私たちに、誓いを立てる必要がない、常に真実な言葉を用いるように、と教えておられるのです。

 キリスト教会では、昔から婚約式、結婚式を大切に執り行って来ました。婚約式では、結婚式を挙げるときまで、互いに神の御前に清い交際を行うという誓いを立てます。また、結婚式では、死が二人を分かつまで、どんなときにも堅く節操を守ると誓います。聖書で、「一切誓うな」と命じられているのに、婚約式、結婚式で誓約をさせるというのは矛盾ではないか、と言われそうですね。言葉の上では確かにそうです。

 婚約式、結婚式は、神の御前にする礼拝です。「約束する」、「誓う」という言葉を神の前で語るとき、それは主の御前で、主に対して誓ったことだから、絶対果たさなければならないということではありません。私たちがどんなに誠実で、真剣に約束すると語った言葉であっても、どうしても守れなくなることがあります。どんな時にも伴侶を愛し、敬い、守り、助けると約束しても、そして、その言葉に嘘偽りはなくても、時と場合によって、その心を貫けなくなることがあります。

 だから、誓約など出来ないというのが正直なところかも知れませんが、それは、相手に対して誠実な態度ではないでしょう。生涯の伴侶となる相手を「今!」愛していること、そして、その愛を貫きたいと思っていることを、「約束する」、「誓う」という言葉で言い表すわけです。それを神と会衆との前で語るのは、私の伴侶への愛、真心さえも、自分だけで真実に守っることが出来ないということを知っているからです。だから、誓約の言葉を聞いた会衆には、二人のために、神の祝福と導きを祈り続ける責任があります。私たちは、互いに祝福を祈り合う祈りによって、その祈りを聞き届けて下さる神の御愛によって、守られ、支えられていくのです。

 結婚の誓約の後には、指輪の交換をします。指輪は、新郎新婦入場の際、リングボーイによって司式者のもとに運ばれ、祭壇の上にささげられます。そして、指輪の交換のときに祭壇から取り下ろして新郎新婦に渡すという形式を取ります。それはまさに、お互いを愛する愛が真実なものとなるように、神に生涯支え続けていただくということを、そこに象徴的に表現しているのです。つまり、主の御愛こそ、私たちを真実に生かす力なのです。

 主よ、私たちの人生、様々な計算違いがあります。あなたはカナの婚礼で、ぶどう酒が足りなくなるという事態に、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行って、その結婚披露宴を祝福されました。どうか、あなたの恵みに依り頼みつつ、絶えず御前に真実に歩ませて頂くことが出来ますように。 アーメン