「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」 箴言29章18節

 冒頭の言葉(18節)で、「幻」(ハーゾーン)は、「見る」(ハーザー)という言葉から派生したものですが、これは特に、預言者に啓示と託宣を与える手段として用いられるものです(サムエル記上3章1節、イザヤ書1章1節、ナホム書1章1節。ハバクク書1章1節など)。その意味では、口語訳のように「預言」と訳してもよさそうです。

 また、「堕落する」(パーラーのニファル形)という言葉は、「自由にさせる、抑制が効かない」という言葉です。そこから、「自分勝手に振舞う、わがままになる、滅びる」といった意味に解されています。

 そこで、口語訳は「預言がなければ民はわがままにふるまう」とし、新改訳は「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」、KJV(欽定訳)は「Where there is no vision, the people perish(幻がなければ、その民は滅びる)」と訳しています。

 初代の王サウルの時代には、サムエルという預言者がいました。ダビデの時には、ナタンやガドという預言者がいました。ソロモンに油を注いで王としたのは預言者ナタンですが、彼の治世に預言者は姿を見せなくなります。預言者は、神の代弁者として神の御言葉を語るのですが、その職務の一つは、政治指導者に託宣を告げること、罪を示して悔い改めを迫ることです。

 ソロモン王の御世に預言者の姿が見えないのは、あらゆる知恵知識に通じていたので、預言者を必要とはしなかったということかも知れません。しかしながら、王としての圧倒的な権力によって、預言者の働きを排除していたというのであれば、それは、聖書が求めている、神を畏れる知恵を持つ者の姿ではありません。

 ですから、「幻(預言)がなければ民は堕落する」という言葉が、ソロモンの第二格言集(25~29章)に語られているというのが、興味深いところです。あらゆる知恵知識に通じていたソロモンが、娶った千人もの女性たちに惑わされて、主の戒めに背き(列王記上11章1節以下)、その結果、イスラエルの国が分裂する原因を作ってしまいます。

 主なる神はソロモンに、「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す」(同11節)と仰せられました。まさに、神の言葉がなかった、あるいは聞こうともしなかったので、自ら堕落してしまったのです。

 私たちは、神の御言葉を「聖書」として、手に持っています。いつでも、御言葉に触れ、それを目にすることが出来ます。御言葉がないわけではありません。けれども、自分に語りかけられた神の言葉として御言葉を聞こうとしないならば、それは、わがままに振舞っていること、信仰が堕落していることと言えるのではないでしょうか。

 アモス書8章11節に、「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」と記されています。神の御言葉を聞こうとしないから、また、聞いてもそれを行いに表そうとしないから、霊が、魂が飢えと渇きに苦しむことになるというわけです。

 ヨエル書3章1節に、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」と記されています。聖霊が注がれると人々は預言をし、夢と幻を見ると言われています。聖霊について主イエスは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26節)と教えておられます。

 パウロは、聖霊に満たされること(エフェソ書5章18節)と、キリストの言葉をうちに豊かに宿らせること(コロサイ書3章16節)との間に密接な関係があることを教えています。それによって引き起こされる行動が全く同様だからです。

 神が遣わしてくださる真理の御霊、弁護者なる聖霊に満たされ、キリストの言葉を絶えず思い起こさせて頂き、かくて、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ者となって、その人のすることはすべて、繁栄をもたらすという祝福に与らせて頂きましょう。


 主よ、私たちに幸いを授け、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道に留まらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人にならせて下さい。私たちはあなたに依り頼み、御言葉と聖霊の導きに従って歩み、心から主を褒め称えます。 アーメン