「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」 箴言22章6節


 冒頭の言葉(6節)について、原文では、最初に、「教育せよ」と訳されている「ハノーク」という言葉が記されています。「ハノーク」は、「捧げる(dedicate,consecrate)、訓練する(train up)」という言葉です。「捧げる」という言葉が、「訓練する」という意味も持ち合わせているというのは、なかなか意味深いことだと思います。つまり、子どもを神に献げるということは、子どもが神のものであるということで、その子を神のものとして訓練する、光の子どもとして養育するという思いが込められるようになったのでしょう。

 また、「歩むべき道の初め」と訳されている部分の原文は、直訳すると「彼の道の口の上で」という言葉です。ここで、「~の口の上で」(アル・ピ・~)というのは、「~に従って(in accordance with~)」と訳される慣用句ですから、「彼の道に従って」という訳になるわけです。口語訳は、「その行くべき道に従って」、新改訳は、「その道にふさわしく」と訳しています。新共同訳が「初めに」としているのは、「口の上」を「入り口、初め」と解釈したからでしょう。

 子どもの教育は、親に課せられている非常に重大な責務ですが、それは、子ども一人一人の個性や才能、また、成長発達の段階に合わせて行われなければならないということでしょう。その時々に相応しい訓練の仕方、教育のあり方が求められるわけですが、特に、「年老いてからもそこからそれることがない」との関連で、「初め」、即ち人生の初めの教育が重要だという訳文になっていると考えられます。

 「三つ子の魂、百まで」という言葉にも示されるとおり、幼児期の教育や躾が、確かにその子どもの人生に大きな影響を与えます。箴言には、「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」(13章24節)、「打って傷を与えれば、悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て」(20章30節)という、善悪を弁えさせる躾のために、子どもに体罰を与えることを肯定する言葉が出て来ます。

 私は、体罰を全く否定するものではありません。わが子も、ときに叩いて教えました。しかし、昨今の、親による児童虐待の現状を考えると、無条件にそれが肯定される言葉というわけにもいかないでしょう。まさに、親としての愛情、子どもを正しく育てるための知恵が問われていると思います。

 私たちが子どもに教えたいのは、親の鞭を恐れさせることではなく、親の愛に安らぎ、信頼することです。どれだけ自分が親から愛されているのかということを知ると、子どもは自分が大切な存在であることを悟ります。自分が大切な存在であることを悟った子どもは、自分の命を粗末にすることはないでしょう。そして、周囲の人々をも大切にする心優しい人に育つでしょう。

 また、子どもを愛するとは、欲しがるものを何でも与えるということではありません。今の子どもたちは、私たちが子ども時代には夢にも思えなかったようなものを、たくさん持っています。にも拘らず、親の愛に飢え、やがて親を憎むようになる子どもたちがいます。親が子どもに豊かさを味わわせようとしてあくせくしている間、子どもは親に遊び相手、話し相手になってもらえなかった寂しさをこらえて過ごしていなければならなかったからです。

 そのように、寂しくて悲しくて泣いている子に、泣くな、しっかりしろと鞭を当てるなら、後から何を買い与えたとしても、子どもは自分が親から愛されていると感じることは、金輪際出来ないでしょう。子どもの話を聞くこと、辛抱強く子どもの相手になること、一緒に仕事を手伝わせ、たくさん褒めてやること、必要な時には適切に叱ることなど、様々なことの積み重ねにより、子どもは親の愛を心と体で感じ、味わうのです。

 特に、信仰を持つ私たちにとって、「歩むべき道」とは、主イエスに従う道です。私は、父が主の御前に畏み祈る姿を通して、神を知りました。私のために執り成す祈りによって、父の愛を知り、そして、神の愛と赦しを知りました。父が日々の生活を通して、そして折りある毎に示してくれた信仰の姿、特にその祈りによって、今の私が造られたと思っています。既に天に召されましたが、今も、尊敬すべき父を与えて下さった神に、心から感謝しています。

 主よ、私たちに与えられている信仰の喜び、平安、その恵みを、確実に子や孫に、幼稚園にお預かりしている子どもたちに手渡していくため、御言葉どおり、歩むべき道の初めに、心を込めてしっかりと教育出来ますように。そのために必要な愛を、知恵を、力をお与え下さい。 アーメン