「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。」 箴言15章15節

 7節に、「知恵ある人の唇は知識を振りまく。愚か者の心は定まらない」とあって、そこでは、「知恵ある人の唇」と「愚か者の心」が対比されています。唇で語る言葉とその心には密接な関係があること、それゆえ、語る言葉によってその心が判断出来ることを示しています。

 主イエスが、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ福音書6章43節以下)と、語られている通りです。

 また、言葉と同様に、顔の表情も、その人の心のうちを表します。13節に、「心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ」と言われています。喜んでいる人の顔は明るいです。そして、沈んでいる顔は、その人の心の痛みを示しています。その痛みが癒されなければ、「霊は沈み込む」と言われるように、体と心の健康を害してしまうでしょう。

 12章25節の「心配は人をうなだれさせる」、17章22節の「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈み込んでいると骨まで枯れる」、18章14節の「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう」という言葉なども、それを示しています。

 殉教目前のステファノが、最高法院に引き出されて証言台に立たされたとき、その顔は、決死の覚悟で強張っていたというのでなく、天使の顔のように見えたと言われます(使徒言行録6章15節)。その心境は、同5章41節の「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」というところでしょう。そして、主に委ねられた使命を果たし終え、意気揚々と天に凱旋しようという、気分の晴れ晴れとしたステファノの様子を思い浮かべます。

 そのとき、ステファノは、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言っています(同7章56節)。その顔の輝きは、神の右に立つ人の子イエス・キリストの姿をはっきりと見ていたからだったというわけです。そして、神の右に座しておられる主イエスが(ローマ書8章34節、コロサイ書3章1節など)、立ち上がっておられるということは、命を懸けて最高法院で福音のメッセージを語っているステファノを、主が立ち上がって賞賛しておられた(スタンディングオヴェーション)ということではないでしょうか。

 冒頭の言葉(15節)に、「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」とあります。これは、心を暗くさせるような災いに襲われても、心が朗らかならば、いつも宴会のような喜びがあるということですが、それは、私たちの力で出来るものではありません。主が共におられて私たちを支え、そして万事を益となるようにして下さるからこそ、災いの中でも、心が平安で、朗らかにしておられるのです。

 かつて、松江で伝道しておられた英国人宣教師バックストン先生が、いつもにこやかな顔をしておられるのを見て、仏教の僧侶が感銘を受け、それがもとで道を求めてキリスト教の信仰に入るという出来事があったそうです。私たちも、ステファノやバックストン先生とまでは行かなくても、主イエスから与えられた信仰の喜びを、顔色でも証し出来るような者にならせていただくことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。そのために、いつも主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って恵みのうちを歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちの生活には、憂いが満ちています。思いがけないことで喜びが奪われます。どうか、いつも私たちの心に、喜びと平安を与えて下さい。主が共にいて、私たちを助けて下さい。キリストの言葉が、私たちの内に豊かに宿りますように。そのために、御子を、そして聖霊をお遣わし下さった父なる神の御愛を感謝します。 アーメン