「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。」 箴言8章22節

 8章には、「知恵の勧め(3)」という小見出しがつけられています。ここでは、知恵を擬人化して、知恵自身が教師となって人々を教えるという表現をとっています。そして、10,11節に、「銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない」と語り、知恵こそが最高の宝であることを示します。

 冒頭の言葉(22節)で、「主は、その道の初めにわたしを造られた」と、神が天地を造られる前に、知恵が創造されていたことを記しています。27節の、「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という言葉は、創世記1章2節の、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という言葉を思い出させます。混沌とした大地、闇に覆われた深淵ということですから、そこには何の法則も秩序も働いていない、まさに混沌と闇が支配している状態です。

 そのような太初の混沌と闇の世界に、神は「光あれ」と言われて光を創造され(同3節)、大空を造って深淵を上の水と下の水に分けられ(同6,7節)、下の水を一箇所に集めて乾いた陸地を造られました(同9,10節)。かくて、自然の秩序が設けられ、そこに生命が息吹きます(同11節以下、20節以下)。

 このような天地創造の御業が始められる前に、知恵が生み出されていたというわけです。ということは、神が天地を創造するためには、知恵が必要であった。それぞれは偶然の産物ではなく、神が知恵を尽くして一つ一つのものを設計し、バランスを考えて配置されたということでしょう。

 地球は一日に一回自転しながら、一年かけて太陽の周りを公転します。しかも、地軸は公転面に対して23.5°傾いていて、その傾きを保ったまま公転するので、四季の移り変わりのある地域が生まれました。動力をつけたり、何かでぶら下げられたりしているわけでもないのに、どうして止まらないのでしょう。落っこちてしまわないのでしょう。少しでも太陽に近づけば、地球は暑くなり過ぎます。遠ざかれば、氷の星になってしまうでしょう。地球の現在の位置、バランスが、生物が生育するのにちょうどよい環境になっているわけです。

 「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」(30,31節)とあります。これは、天地万物を巧みに創造された方が、主の御もとで主の心に適う者として過ごしておられたこと、そして、主から遣わされてこの世に来られ、地上の人々に神の御心を教え、共に楽しむようにされたことを物語っています。これは、この世においで下さった主イエスのことを示しているのです。

 ヘブライ書1章2,3節に、「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになりました」と記されているとおりです。前にも引用しましたが、第一コリント書1章24節に、「神の知恵であるキリスト」という言葉があります。即ち、天地万物が創造される前に産み出されていた知恵とは、主イエスのことで、主イエスがその知恵で天と地と、そこに住むすべてのものを創造されたということを、聖書は語っているわけです。

 天地万物を創造し、その知恵によってすべてに秩序を与えておられる主イエスは、贖いの供え物として御自分を十字架につけられました。私たちを神の子とするためです。神の知恵たる主イエスは、私たちの罪を赦し、永遠の命を与え、神の子とし、御霊の賜物を授けて下さいます。日々、平安と喜びをもって導いて下さいます(34,35節参照)。主イエスと共に心から神の恵みに感謝し、心から主をほめ讃えましょう。

 主よ、私はあなたによって創られました。あなたは私の主、私の神です。あなたの御声に耳を傾けます。あなたの計らいはいかに貴いことでしょう。どうか私を究め、私の悩みを知って下さい。私の内に迷いの道があるか試し、私をとこしえの道に導いて下さい。全世界に、私たちのただなかに、クリスマスの喜びが豊かにありますように。 アーメン