「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」 箴言1章7節

 今日から箴言を読み始めます。箴言の「箴」は、ハリという文字です。現在、ハリは鍼と書きます。これは鍼灸のハリという字です。松山におりましたとき、鍼灸をしていた方から、昔、中国では竹のハリで治療をしていたから「箴」で、現在は金属のハリを使うようになったので「鍼」という字になったのだと伺いました。ということで、「箴言」とは、知恵の言葉というハリで、人生のツボをつくという意味なのだと教えられたことでした。

 箴言の著者は、「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモン」とされています(1節)。ただ、25章1節に、「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」とあり、25章以下の部分は、もとはソロモンかも知れませんが、ヒゼキヤの世に筆写されたものと、後代の編者が記しているわけで、全体を編集したのは、捕囚後のことであろうと考えられています。

 筆者とされているソロモンについて、列王記上5章9,10節に、「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった」と記され、さらに、「彼の語った格言は三千、歌は千五百種に達した」(同12節)とあり、そして「あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた」と言われています(14節)。その著者が箴言を書いた目的を、2~6節に記しています。短くまとめれば、知恵を得て賢くなるため、ということになるでしょうか。

 「知恵」(ホフマー)という言葉は、旧約聖書中に161回用いられていますが、うち42回が箴言で使われ、次いでコヘレトの28回、ヨブ記の18回という順序になっています。ソロモンの知恵について語るため、列王記には17回出て来ます。

 「知恵」という言葉には、「技量」という意味があります。出エジプト記に8回出て来ますが、それは、神の幕屋を建造し、幕屋で用いる祭具や祭司の衣服などを整えるために必要な知恵を授けると言われており(同31章3,6節など)、そこでは、立派な仕事をするために必要な技術的な知識や腕前を指しています。そうすると、箴言というのは、人が人生を生きていく上で必要な知識や技術を授けるため、その格言を集めたものということになりますね。

 箴言の中で最も良く知られているのは、冒頭の言葉(7節)にある「主を畏れることは知恵の初め」という言葉でしょう。「主を畏れる」という言葉が箴言の中に14回記されており、とても重要なテーマであることが分かります。知恵との関連では、9章10節にも「主を畏れることは知恵の初め」とあり、15章33節でも、「主を畏れることは諭しと知恵」と言われています。

 「知恵の初め」とは、入り口、入門というよりも、土台、基礎という意味です。主なる神を畏れるということが、知恵全体を支えている、知恵を探っていくとその一番深い重要なところに神への畏れというものがある、ということです。そして、聖書が教えている神への畏れとは、神を怖がることではありません。「障らぬ神にたたりなし」ではないのです。神の聖さを認識することで生じる崇敬と畏怖の念、そして、畏敬の念から生じる神への従順や忠誠ということです。

 十戒を授けられたイスラエルの民に、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じた後(申命記6章4,5節)、「あなたの神、主を恐れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」と言われているのは(同13,14節)そのことです。

 新約には、「知恵」(ソフィア)という言葉が51回用いられています。うち28回はパウロ書簡にあり、中でも第一コリント書に17回用いられています。知恵や知識を誇りとしていた人々との論争が、その背景にあるものと思われます。その中でパウロは、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(第一コリント書1章23,24節)と言っています(同30節参照)。十字架につけられたキリストは、愚かであり、躓きだといわれるけれども(同1章18節)、それこそ、神の知恵だというのです。

 箴言に、神の知恵なるキリストを見出し、その恵みを証ししつつ主と共に歩みたいと思います。

 主よ、あなたを畏れることを教えて下さい。あなたは私たちの創り主で、私たちのことをすべてご存知です。あなたの御心に従って歩むことが、私たちの喜び、私たちの楽しみとなりますように。 アーメン