「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください。飛び交う稲妻、うなりを上げる矢を放ってください。」 詩編144編5,6節

 144編は、12~14節を除いて、18編、33編などから多くの言葉を拝借し、戦いに勝利をお与え下さる主をたたえ、人の儚さを嘆き、敵からの解放と繁栄を求める詩として纏め上げられたかたちになっています。

 「主をたたえよ、わたしの岩を」(1節)、「わたしの支え、わたしの砦、砦の塔、わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ」(2節)は18編3節、「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください」(5節)は18編10節、「飛び交う稲妻、うなりを上げる矢を放ってください」(6節)は18編15節、「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち」(7節)は18編17節。そして、「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」(9節)は33編2,3節と、よく似ています。そのほか、3節は8編5節、4節は39編6節などといった具合です。

 詩人はこのように、他の詩で用いられていた言葉を借りてきて、その信仰を学び、同じ恵みに与らせて欲しいと願っているのです。表題に「ダビデの詩」(1節)とあるように、ダビデの信仰に倣い、ダビデと同じ恵みに与りたい、ダビデの子孫であるイスラエルの民に救い、恵みを与えて欲しいと願っているわけです。なお、死海写本にはこの表題はなく、また、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)には、「ゴリアトに対するダビデの(詩)」という表題がつけられています(サムエル記上17章参照)。

 上述の通り、冒頭の「主よ、天を傾けて下り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください」という言葉(5節)は18編10節によく似ていますが、これは、もともと、モーセに十戒を授けるために神がシナイ山の上に降られたときの描写のようです(出エジプト記19章16,18節、20章18節)。エジプトを脱出した民に授けられた神の律法は、神と民との間に交わされた契約書でした。ですから、十戒の書かれた石の板を収めた箱は、契約の箱と呼ばれました。詩人が、「主よ、天を傾けて降り」と今ここで求めているのは、あらためて神との契約を結びたい、新しい契約の言葉を頂きたいと求めていることになります。

 ただ、18編の言葉を借りて、モーセのときのように契約のために主が降られることを求めているからといって、文字通り、同じことが起こるということではありません。それは、詩人も承知していると思います。「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」(9節:33編3節)と、新しい契約という恵みに新しい歌で神をたたえると詩人が宣言しているからです。

 預言者エリヤが神の言葉を求めて神の山ホレブに着いたとき(列王記上19章1節以下)、主の御前に激しい風が起こり、その後に地震が起こり、その後に火が起こりましたが、モーセのときのように、主がその中でエリヤに語りかけるということはありませんでした。それらが起こった後、主なる神は静かにささやく声をもってエリヤに語られたのです(同12節)。

 詩人の願いに対して主なる神が用意されたのは、飛び交う稲妻や唸りを上げる矢でも、静かにささやく声でもありませんでした。それは、神の独り子イエス・キリストです。御子が天から降り、人間となって十字架に贖いの業を完成なさいました。流された血によって新しい契約が結ばれたのです。御子を信じる者は誰でも、神の子となることが出来ます。

 エレミヤ書31章33節によれば、「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」ということですが、それは、主イエスが聖霊において私たちの心に宿られ、共にいて下さるということです。即ち、私たちの体が契約の箱、そして、聖霊が契約書です。

 12節以下に、家庭に息子娘があり、蔵に穀物が満ち、牧場に肥えた牛がいて、都は平和に保たれているという、神の祝福に満たされた様子が描かれています。そして主イエスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われました(ヨハネ福音書10章10節)。私たちの内に住まわれ、常に共にいて下さる主を仰ぎ、その御言葉に従って、聖霊による平安と喜びのうちに、日々歩ませて頂きましょう。

 主よ、聖霊によって神の愛を豊かに注ぎ与えて下さり、感謝致します。それにより艱難をも喜ぶことが出来ます。希望の源なる主が共におられるからです。絶えず主の御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン