「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。」 詩編130編5節

 この詩は、「七つの悔い改めの詩」(6,32,38,51,102,130,143編)の一つに数えられています。

 詩人はこの詩を、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(2節)という、救いを求める言葉をもって始めています。詩人は今、「深い淵の底」にいて、そこから主を呼んでいると記しています(1節)。「深い淵の底」は、「深み」(マアマッキーム)という言葉で、通常、海の深みを表します(69編3,15節、イザヤ51章10節など)。海は恐怖の対象として描かれることが多く(46編4節、イザヤ5章30節、ルカ福音書21章25節など)、人に恐れや死をもたらす悪しき龍が住むと考えられていました(ヨブ7章12節、74編13節、148編7節、イザヤ27章1節)。

 詩人の語る「深い淵の底」について、具体的に何を指すのか、どのようにして、深い淵の底に落ち込んだのか、詳細は不明ですが、3節で、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」と語っていますので、詩人は、罪ゆえにそこに投げ込まれたように感じている、ということなのでしょう。それは、神にうち捨てられ、祈りの声も神に届かないように思える「深み」なのです。

 罪ゆえに海の深みに投げ込まれたといえば、ヨナ書に物語られている、アミタイの子ヨナという預言者のことを思い出します。ヨナは、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」という主の言葉を聞きましたが(同1章1,2節)、それに背いてタルシシュ行きの船に乗ります。タルシシュの正確な場所は分かっていませんが、地中海の西方、現在のスペイン領にあるだろうと考えられています。一方、ニネベはアッシリア帝国の首都で、現在のイラクの北方に位置していました。

 アッシリアは、北イスラエルを滅ぼした国です。ヨナに対して主の言葉が告げられたのが、北イスラエル滅亡の前か後かなども不明ですが、いずれにしても、そのような国に行って神の言葉を告げ知らせたいとは思えなかったわけです。というのは、彼が神の裁きの言葉を告げ知らせることによって、ニネベの町の人々が悔い改めでもすれば、憐れみの神は裁きを思いとどまられるからです。そして、神が預言者が遣わされるのは、勿論、ニネベを滅ぼしたいからではなく、悔い改めに導きたいからなのです。ヨナは、ニネベは滅んで当然と考えていたので、敢えて主に背いて逃げ出したわけです。

 そのため、海は大嵐になりました(同5,12節)。しかし、ヨナが嵐の海に放り込まれると、海は静まりました(同15節)。海に放り込まれたヨナは、巨大な魚に飲み込まれ(同2章1節)、その腹の中から主に祈りをささげました(同3節以下)。そこに、「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」とあり、130編1,2節をヨナが祈ったところ、神が答えられたと読める内容です。

 自分の罪ゆえの苦しみの中からの叫びを聞かれるとは、なんと神は憐れみ深いお方なのでしょう。だから、冒頭の言葉(5節)のとおり、「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」というのです。ここで、「望みをおく」は「望む、待望する」という言葉(カーワー、ピエル完了形)で、「待ち望む」は、「待つ、待ち望む」という言葉(ヤーハル、ヒフィル完了形)であって、意味上の違いはそれほど大きくありません。同類の言葉を重ねることで、主を待ち望む思いの強さ、信仰の強さを表わしているようです。

 ただ、その憐れみが自分に与えられることは大歓迎なのに、自分たちを苦しめたニネベの人に与えられるのは納得いかないというのは、ただヨナだけの問題ではありません。それは、私のことです。しかし、神のなさりようは納得いかないと腹を立てたとき、私は主に背く者なのです。そして、深い淵に陥って苦しむ者となるのです。

 主は、誰でもない私自身が神に従う者となるように、絶えず憐れみをもって招き続け、語り続けていて下さいます。主は深い愛と憐れみによって神の義を作り出されるお方なのです。苦しみ、悩みのすべてを主の御手に委ね、常に主に望みを置き、朝ごとに主の御言葉を待ちましょう。

 主よ、私の魂はあなたを待ち望みます。慈しみはあなたの許に、豊かな贖いもあなたの許にあります。あなたは私をあらゆる罪から贖い、救いの喜びに与らせて下さいました。絶えず御言葉に耳を傾け、素直にその導きに従うことが出来ますように。 アーメン