「御覧ください。僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます。」 詩編123編2節

 123編は、「都に上る歌」詩集の4番目の詩で、主に憐れみを求める祈りが記されています。

 前半(1,2節)が主に対する信頼を言い表し、そして後半(3,4節)は、嘲る者らからの救いを求める祈りが記されます。その双方を結んでいるのが、「憐れみ」という言葉です。

 「わたしたちを助けてください、救ってください」というべきところを、「憐れんでください」(3節)と求めているということは、詩人が、自分には神に救いを願う権利や資格がないと考えているか、あるいは、神に対する罪意識があるということではないでしょうか。もし、自分は神の御前に正しく歩んでいる、潔白だ、と考えているならば、敵の嘲り、蔑みに対して、神が相手を正当に裁いて下さるように、そうして恥を雪いで下さるように、と求めたことでしょう。そう願っていないのは、敵の嘲りの言葉、侮辱の言葉が、詩人らの罪責をあげつらうもので、悔しいながら、それに反論出来ないということだろうと思います。

 詩人は敵対者のことを4節で、「平然と生きる者ら」、「傲然と生きる者ら」と呼んでいます。その言葉の背後には、彼らもまた、神の前に罪なしとはされない者たちであるという詩人の思いが込められているのでしょう。嘲りや蔑みというのは、高いところに立って他者を見下げる行為、それを言葉にしたという表現です。私たちが人を裁くとき、そこに神への畏れや、相手のことを思い遣る心なしにそれをするなら、いつの間にか自分を高いところ、即ち、神の御座において人を断罪しているということになるのではないでしょうか。

 「敵対者」をヘブライ語で言うと、「サタン」です。サタンは、ヨブ記1,2章に見るように、私たちの敵対者として神の前に立ち、私たちの罪をあげつらい、断罪するという役割を果たします。

 敵対者が詩人たちを罪に定め、嘲笑し、侮辱している中、この詩人は天に向けて目を上げます(1節)。そこには、主なる神がおられ、詩人たちを見下ろしておられます。主なる神の口は、その手は、どのように動き、どのように語ることでしょうか。詩人は、冒頭の言葉(2節)のとおり、まさにそこに目を注いでいます。

 「僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように」とは、僕、はしための関心は、常に主人・女主人が自分たちをどのように取り扱うかにあるということ、そして、出来ることなら、主人が自分たちに寛大であることを求めているということです。詩人はそのことを取り上げて、主なる神に目を注ぎ、憐れみを待つ、と言います。即ち、嘲られて当然、侮辱されても仕方のない自分たちを、しかし、慈しみ深い恵み豊かな主は、きっと憐れんで下さると期待しているのです。

 その祈りに答え、求めに応じて、主なる神は彼らに憐れみを注ぎ、すべての罪を赦し、その呪いから解放して下さいました。それは、彼らが受けるべき罪の刑罰、嘲笑、侮辱を、神の独り子、主イエス・キリストが身代わりに受け、贖いの供え物とすることによって、成就されたのです。

 今、私たちの心は、神の愛と恵みによって平安に満たされ、また感謝と喜びに溢れています。ゆえに、私たちも天を仰ぎます。私たちを憐れみ、救って下さった御子キリストが、神の右に座しておられ、敵対者サタンの告発に対し、私たちの弁護者として、今も私たちのために執り成していて下さるからです。

 主よ、贖いを感謝します。救いを感謝します。平安を感謝します。憐れみを感謝します。私たちは打ち捨てられて当然の罪人に過ぎませんが、憐れみのゆえに神の子とされ、主を礼拝する民の一員とされました。あなたのなして下さったことを何ひとつ忘れず、絶えず感謝し、喜んで御言葉に従うことが出来ますように。 アーメン