「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。」 詩編81編9節

 4節に、「角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に」とありますが、角笛を吹き鳴らすのは、イスラエルの第七月一日、新月の安息日で、その日は、聖なる集会を行います(レビ記23章24節)。続く十日が贖罪日(同27節)、そして満月に当たる十五日の安息日から一週間、仮庵祭(かりいおさい)が行われます(同34節)。ということで、この詩は仮庵祭のたびに朗読されるように作られたものと思われます。

 仮庵祭は、葡萄の収穫祭で、秋の実りを神に感謝する祭りです。それが「仮庵」の祭と呼ばれるのは、この祭りの間、戸外の仮の簡素な小屋で過ごすからです。それは、もともと葡萄を収穫し、直ぐに葡萄を搾って葡萄酒を造るという作業を行うため、雇った労働者が寝泊まりする仮小屋を、葡萄園に建てたためです。

 そのことに、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、長い間荒れ野を旅して、テントで生活したことを重ね合わせ、その苦労を忘れないため、そして、現在の安定した生活、大地の恵みを神に感謝するためなのです。

 角笛を吹き鳴らして呼び集めた民に、この詩が、神のメッセージとして朗読されます。その中心メッセージは、詩の中心にある、「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え」(9節)という言葉です。そして、神に聞き従う者には、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」という約束が与えられます(11節)。

 けれども、「わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求めなかった」と言われます(12節)。荒れ野を旅する間も、約束の地に入ってからも、イスラエルの歴史は、神に背き、その御言葉に従わない歴史でした。神は、「頑なな心の彼らを突き放し、思いのまま歩かせた」と言われます。その結果、民は神の御翼の陰を離れ、自分勝手に進んで自ら滅びを招いてしまいました。パウロがローマ書1章18節以下、24節で語っているのは、そのことです。

 神は、「わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに」と言われています(14,15節)。このメッセージは、「何度も名前を読んだのに、一度も答えようとしなかったから、もう呼ばない。もし答えてくれたら、守ってあげたのに、一度も答えなかったから、もう二度と守ってあげない」と言おうとしているわけではありません。

 このようなメッセージを聞かせつつ、今このメッセージを聞いているあなたは、わたしの声に聞き従いますか、いつもわたしを求めますか、と問いかけているのです。そして、もし聞き従うなら、最良の小麦で養い、「わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう」と、主が再び、約束されているのです(17節)。

 仮庵祭の最終日には、大祭司が金の水差しでシロアムの池から水をすくい、それを神殿に運んでその水を祭壇に注ぐという儀式を行います。それは、来春の小麦や大麦の収穫のために、雨を降らせて下さいという祈りの儀式です。

 ヨハネ福音書7章で、主イエスが、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37,38節)と言われたのは、この日の出来事です。ここで、生きた水と言われているのは、聖霊のことです。

 ヨハネは、主イエスが「大祭司」としてお立ちになったこと、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」ということで、命の水を与えるのは、主イエス御自身であることを示します。そして、霊的な収穫(ペンテコステの出来事:使徒言行録2章)が豊かにあるように、主イエスを信じる者に聖霊が注がれるように祈られた、と記しているのです。

 私たちが主イエスを信じて、その御声に聴き従うなら、岩から蜜が滴るという神の御業を通して、聖霊の豊かな恵みで飽かせられる、即ち、自分自身が満足させられるだけでなく、それが川の流れとなって流れ出るようになると言われているのです。

 主よ、御名を崇めます。私たちが主の御声に絶えず耳を傾け、喜びをもってその導きに従うことが出来ますように。聖霊の豊かな恵みに与り、主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。 アーメン