「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。」 詩編74編16,17節

 74編は、神がイスラエルを顧み、敵の手から救い出して下さるように願い求める「祈りの詩」です。「どうか、御心に留めてください。すでにいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったこのシオンの山を。永遠の廃墟となったところに足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました」(2,3節)などという言葉から、バビロンによってエルサレムの都が破壊され、神殿が焼かれた情景を思い浮かべることが出来ます。

 「どうか、御心にとめて下さい。・・このシオンの山を」ということは、詩人は今、廃墟となった神殿の丘で、神の救いを祈り求めているわけです。「永遠」(ネーツァー)という言葉が、1,10,19節にも用いられていて、一つのキーワードになっています。神殿が廃墟となってから、ずいぶん長い時間が経過しているわけです。

 詩人を取り巻いている現実は、厳しいものがあります。神が永遠に守られると信じた都が破壊され、神殿が廃墟とされたのです。また、王をはじめ、主だった者はすべて、捕囚として連れ去られました。彼らを指導する預言者も、執り成し祈る祭司もいません(9節)。エルサレム周辺に残されている人々は、敵の嘲りにさらされて生活しています(10節)。

 詩人は、見えるものすべてが破壊され、焼き払われてしまったエルサレム神殿の廃墟で、目に見えない神に、「神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき、永遠に突き放してしまわれたのですか」と、嘆きの祈りをささげます(1節)。詩人は、この最悪の状況の中で、まさにすべての拠り所が失われた状況の中で、必死にその拠り所を求めているのです。

 詩人にとって神は、「いにしえよりの王」であり、「この地に救いの御業を果たされる方」なのです(12節)。「御力をもって海を分け」(13節)というのは出エジプト記14章の出来事を指しています。その後に出てくる「竜」は海の象徴、「レビヤタン」(14節)というのは、イザヤ書27章1節などの記述から、川を象徴しているものと考えられます。川も海も、人を死に追いやり、飲み込んでしまう悪しき獣が住む場所と考えられていたわけです。

 ですから、竜の頭を砕き、レビヤタンの頭を打ち砕いて、砂漠の民の食糧とされたというのは、海や川、砂漠という、人の命を脅かすところが、神の養いを受け、その恵みを味わうところに変えられたということです。具体的には、イスラエルの民の前に紅海が分けられ、また、ヨルダン川がせき止められたことや、岩から水が出たこと(出エジプト記17章、民数記20章)、あるいはまた、天からマナが降ったこと(出エジプト記16章)などを指しています。

 冒頭の言葉(16,17節)のとおり、神は昼には太陽、夜には月や星という光を放つものを備えられました(創世記1章14節以下)。確かにそれは、昼も夜も神が支配しておられるというしるしです。詩人は、古の出来事にその拠り所を見出し、順風も逆風も神の御手の業であること、地の境を定められるのも神であられることを悟りました。

 だからこそ、この最悪と思われる状況も神の御手に中にあり、この逆境をむしろ神の民がひとつになって神を求めるべき時とし、神の助けを頂いてその恵みを味わうべき時としようと、声をあげているのです。ここに、イスラエルの人々が持つ信仰を見ることが出来ます。

 私たちも、昼も夜も支配され、夏も冬も造られた主を信じ、逆境のときこそ主を求める時として、絶えず賛美と祈りに導かれる、この信仰にあやかりたいと思います。

 主よ、あなたは確かにイスラエルの主です。その罪によって永遠に捨てられたように見えたイスラエルの民の祈りを聞き、再び光を備えられました。その民の中に、すべてのものを救うメシアをお遣わしになりました。主よ、今未曾有の苦難の中にいる人々を顧み、その心に、生活に、光を備えて下さい。そして、共に賛美と祈りに導いて下さい。 アーメン