「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。」 詩編67編2節

 67編は、神の祝福を祈る歌で、7節の「大地は作物を実らせました」という言葉から、秋の収穫祭のために詠まれたものではないか、と考えられています。

 冒頭の、「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」という言葉(2節)は、民数記6章24~26節の、「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」というアロンの祝福の祈りに似ています。

あるいは、この祈りを援用して作詞されたのかもしれません。そして、アロンの祝福はイスラエルの民のためでしたが、この詩では、「すべての民」(3節)がその恵みに与って感謝をささげることを願っています。

 ここに、「御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」という言葉があります。原文を直訳すると、「彼(神)が御顔を私たちの傍で(私たちと共に)輝かせられますように」となり、岩波訳ではそれを、「われらのもとでかれの顔を輝かせますように」と訳しています。神の御顔の輝きが私たちの傍らに、私たちと共にあるということは、神が私たちに味方していて下さるということ、それによって、私たちも共に神の栄光に輝くことを願っていることになります。
 
 新共同訳が、「傍で、共に」という言葉を「に向けて(unto)」と訳しているのは、民数記の「主が御顔を向けて」という言葉を参考にしたからでしょう。神の御顔が自分たちに対して向けられることは神の愛の表れであり、それが自分たちを祝福する光に照らされることと考えての訳です。

 どちらをとっても内容的にはそんなに違わないことでしょうが、しかし、3節で、「あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために」と語っていることから、詩人は、神の御顔の光が自分たちを通してすべての民に向かうことを願っていると考えられるため、岩波訳のように訳す方が原意にかなっているのではないか、と思います。
 
 このことについて、パウロが「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」と語っている言葉が、第二コリント書4章6節にあります。パウロは、はじめ、キリストが神の御子であることを認めること、信じることが出来ませんでした。しかし、神はパウロの心を照らして、御子の栄光を悟らせられたのです。

 その光は、しかし、彼を祝福する光であっただけでなく、「闇から光が輝き出よ」という言葉に示されるとおり、パウロという闇から福音の光が輝き出よと神が命じられて、今や、パウロの内から福音の光が周りを照らすようになったわけです。パウロの福音メッセージが手紙に記されたことによって、どれほどの人がその光の恵みに与ったことでしょうか。

 けれども、それはパウロに限ったことではありません。私たちも、「自分の体で神の栄光を現しなさい」と言われているのです(第一コリント書6章20節)。桜は桜の花を咲かせ、タンポポはタンポポの花を咲かせるように、私は私の、神に委ねられた使命があり、その使命を果たすことで現される神の栄光があるのです。

 イスラエルが主の聖なる民として選ばれ、宝の民とされたのは、ほかのどの民よりも貧弱だったから、それゆえ、神を信頼し、その御言葉を守るよりほか、生きる術なき民だったからです(申命記7章6節以下)。主を仰ぎ、その手足として主に用いていただくことが出来るように、祝福と導きを祈りましょう。

 主よ、私たちを憐れみ祝し、私たちと共に、私たちの内にあって、御顔の光を輝かせて下さい。御言葉を聴き、主の御心に従って歩み、恵みと愛を家族に、隣人に、証しすることが出来ますように。そして、多くの人々に神の恵みが届きますように。 アーメン