「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。」 詩編53編6節

 この詩は、詩編14編と非常によく似ています。細かく比較してみるのも、味わい深いものです。違いは二つです。

 一つは、14編で「主」(ヤハウェ)と記されている神の名が、すべて一般名詞の「神」(エロヒーム)とされています。これは、十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という規定に従うために、すべて神と書き改めたのではないだろうかと思います。

 今一つは、冒頭の言葉(6節)です。14編のこの部分(5,6節)には、「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」と記されていました。これは、不法を行う者たちが、自分の利益のために貧しい人々を食い物にし、搾取しようとする抜け目ない企みは、神が彼らの避けどころとなられるために、挫折させられる、ということです。

 それが冒頭の言葉のように変えられたということになると、少々困惑させられます。「大いに恐れるがよい」と告げた後、「かつて、恐れたこともなかった者よ」というのであれば、それに続く言葉は14編と同様、神が貧しい者をお前たちの手から救い、そして、お前たちに裁きを下すといった内容のことが語られると期待されます。

 ところが、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」というのです。これでは、悪を為す者に向かって陣を敷き、攻撃しようとした者たちを神が殲滅して、彼らの名を挙げさせられた、ということになってしまいます。これは、どう考えたらよいのでしょうか。

 新共同訳聖書が、「恐れたこともなかった者よ」と、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を」の間に空白を置き、段落を変えているのは、内容的に、ここに断絶があると考えているわけです。

 そして、この空白には、バビロン捕囚が入るのだと思います。イスラエルの民は、神に背いた罪のゆえに国を失い、捕囚の憂き目を見ました。まさしく、神がイスラエルの上に、恐るべき事を為されたのです。だから、かつて恐れたこともなかった者よ、大いに恐れよと言われたわけです。

 けれどもそれは、イスラエルを滅ぼし尽くしてしまうためではありませんでした。彼らが悔い改めて神の御前に謙り、再び主の御名を呼び求めるように(エレミヤ書29章11節以下)、そうして、新しい契約をイスラエルの家、ユダの家と結ぶためです(同31章31節以下)。

 ただし、イスラエルの民が悔い改めたから、捕囚から解放されるというのではありません。神の憐れみによって、解放の恵みに与ったので、悔い改めて神に従う者となるのです。そのために、イスラエルを支配していたバビロンを退けて下さるということです。

 主イエスは、私が悔い改めたから、十字架で贖いの供え物として死んで下さったのではありません。私は、「神などない」と言わんばかりに愚かなことを語り、悪を行っていた者です。そのような罪人の私のために、主イエスが十字架に死んで下さることで、私に対する愛を示して下さいました。敵対している私のために、その贖いの死によって、神と和解する道を開いて下さったのです(ローマ書5章8,10節)。

 放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たして帰って来た息子のために肥えた子牛を屠って祝宴を始めたという「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音書15章11節以下、23,24節)のように、主イエスは私を父なる神のもとへ連れ帰って下さり、親しく食卓を囲む交わりに迎えて下さいました。「神が御自分の民、囚われ人を連れ帰るとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」(7節)と言われるとおり、私はただ、主の御名を「ハレルヤ!」とほめ讃えるのみです。

 主よ、深い御愛を心から感謝致します。私たちが神の子とされるためにどれほどの御愛を頂いたことでしょうか。御独り子が十字架で血を流し、罪の呪いを一身に負い、贖いの業を成し遂げて下ったことを常に心に刻み、御名をほめ讃えさせて下さい。聖霊に満たされ、主の愛と恵みの証し人として用いて下さい。 アーメン