「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」 詩編46編11節

 宗教改革者マルチン・ルターは、特にこの詩を愛し、この詩をもとにして、1529年に「神はわがやぐら」(新生讃美歌538番)というコラールを作詞作曲しました。後にメンデルスゾーンがこのコラールを用いて、交響曲第五番を作曲し、これに「宗教改革」という名前をつけています。また、同じように英国の優れた讃美歌作家アイザック・ウォッツも「神はわが力」(教団讃美歌286番)を作詞しています。この力強い詩に感動し、励ましを受けた人は和知れないことでしょう。

 3,4節に、「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と詠われています。唐の詩人杜甫が、「春望」という詩に「国破れて山河在り」と詠んでいます。長安の都は戦乱のために破壊されてしまったけれども、山河の自然は昔のままに残っているということですね。大地は揺るがないもの、山は動かないものの象徴といえます。

 ところが、「地が姿を変え、山が揺らいで海に移る」という、考えられないような天変地異が起こったとしても、詩人は、「わたしたちは決して恐れない」と語っています。

 一昨日、東北沖で起こった地震と津波は、甚大な被害をもたらしました。全世界の観測史上5本の指に入る規模(マグニチュード9.0)の地震が引き起こしたもので、16年前の阪神大震災を上回る被害になるだろうと思われます。私たちは、このような想定外の出来事に遭遇すると、動転してしまいます。およそ冷静な判断も出来なくなります。「決して恐れない」どころではありません。

 ここで詩人が「恐れない」と語っている根拠は、不撓不屈の精神力というようなものではありません。天変地異を恐れ、震え上がっているとしても、8節、12節に繰り返し語られているとおり、「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」という確信です。この確信の背景には、神が「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」という経験があるのです(2節)。

 過去には、エジプトから脱出させていただいた奇跡の物語があります(出エジプト記参照)。また、アッシリアの猛攻から奇跡的に救われたこともありました(列王記下18章13節以下参照)。バビロニアの捕囚からも奇跡的に解放されました(歴代誌下36章20節以下など)。そのようにして、イスラエルの民は、自分たちと共におられる主こそ、まことの神であることを知ったのです。

 冒頭の言葉(11節)で、「力を捨てよ」とは、「静まる、リラックスする」という意味の言葉(ラーファー)です。「静まれ」といえば、水戸黄門の印籠を思い出しますね。三つ葉葵の紋章の前にひれ伏すごとく、「わたしは神」と宣言されるお方の御前に、恭順の姿勢を示すことが求められています。

 嵐の船の中で眠っておられた主イエスが、風と湖を叱って「黙れ、静まれ」と言われると、すっかり凪になりました(マルコ福音書4章35節以下、39節)。やがて、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺る動かされる」(マルコ福音書13章24,25節)という、この世の終わりのときがやって来ます。それよりも先に、自分自身の人生の終末を迎えるかも知れません。

 そのとき、どんなに心が騒ぎ、波立っても、まさに溺れ死にしそうな状態であっても、そこに、インマヌエルと称えられる御子イエスが共にいて下さるのです。その主イエスが、「わたしの平和を与える」と約束して下さいました(ヨハネ福音書14章27節)。怖じ惑う私たちに、「心騒がせるな、おびえるな」と声をかけて下さる主の平和、平安が、そのとき授けられるのです。それゆえに私たちも、「決して恐れない」と語らせていただくことが出来るでしょう。何しろ、私たちは天に国籍を持つものとされており、その行くべき所が既に定まっているのですから。

 主よ、「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移る」という、すべての拠り所を失って不安と恐れに押しつぶされてしまいそうな状況にあっても、「わたしたちは決して恐れない」と、その信仰を言い表す恵みと導きが与えられることを、心から感謝致します。神の恵みと平安が、今災害のさなかで苦しんでおられる方々の上に豊かに注がれますように。 アーメン