「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。」 詩編39編13節

 この詩の中に、「沈黙」が3度出て来ます。最初の沈黙は2,3節で、舌で罪を犯さないように、黙っていようというものです。これは、「神に逆らう者が目の前にいる」と記されていることから、神に自分の苦しみを訴えることで、神に逆らう者と同じであるとは見られたくない、という心理が表されているのでしょう。ではありますが、そうしているとかえって苦しみがつのり、黙っていられなくなってしまいました。

 2度目は10節で、主に信頼しての沈黙のようです。自分の苦しみを訴えて後、主なる神が自分にどのようなことをして下さるか、沈黙しつつ注目する様子を窺うことが出来ます。

 そして最後は冒頭の言葉(13節)のとおり、「わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください」と願い求める言葉が記されています。ということは、詩人の訴えにも拘らず、いまだ神は沈黙しておられるということでしょう。

 これらのことから、この詩人の境遇を想像してみました。詩人は、重い病いを患っているのではないかと思われます。

 そして、命の火が消えそうになっていると感じているようです(6,7,11,14節)。詩人は、この病いが神によって与えられたものであり、それは、詩人の罪を責め、懲らしめるものと考えています(11,12節)。

 そこで、病いの苦しみと死の恐れから、詩人の心にはさまざまな思いが湧き上がって来るのでしょう。神を呪いそうになることさえあるのでしょう。そんな自分の心の闇を垣間見た詩人は、あわてて口を閉ざします。けれども、やっぱり黙っていられない思いになるのです(3,4節)。

 時には心を奮い立たせ、神を信頼してみようという思いになります。神こそ、詩人の命を御手の中に握っておられるお方だからです。そこで、主が自分をどのように取り扱われるか期待しながら、沈黙し、待ち望んでいるのです(8~10節)。

 けれども、すぐには応答がありません。詩人は悩みます。このまま陰府に降って行くのでしょうか。神は救って下さるのでしょうか。神よ、黙っていないで何とか仰って下さい。これ以上苦しませないで下さい。私の涙を放っておかないで下さい、と叫び求めます。これは、ヨブが13章21,22節で神の求めたことと同じでしょう。

 詩人は、信仰と疑いとの間で揺れ動きながら、なお神に向かって訴え祈ります。彼の目の前には死の壁が立ち塞がっていて、もう前に進むことが出来ず、それを乗り越える力もないのです。今まで彼が積み上げてきたもの、頼りにしてきたものは、何の役にも立ちません。すべてが空しいものでした(5~7節)。

 主なる神との激しいやり取りの中で詩人が到達した結論は、「わたしはあなたを待ち望みます」(8節)ということであり、そして、「わたしは御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人」だということです(13節)。すなわち、神の憐れみなしには生きることが出来ない者であるということ、事ここに至り、一切を主に委ねるほかはないということです。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)と約束された主イエスが、この詩人の死の壁を打ち壊して下さり、それに代わって彼の前に永遠の命の扉が開いて下さることでしょう。私たちも主イエスを信じ、何事につけ、その求めるところを神に申し上げたいと思います(フィリピ書4章6節)。

 天のお父様、御子イエスが私たちの大祭司として、御前にあって執り成し祈っていて下さることを感謝します。その祈りに励まされて、どんなことも神に打ち明けます。人知を超える平安をお授け下さるという約束を信じて、感謝致します。栄光が主に限りなくありますように。この地に、主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン