「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」 詩編32編1,2節

 この詩は、七つの悔い改めの詩編(6,32,38,51,102,130,143編)の一つです。宗教改革者M.ルターは、詩編51,130,143編と共に、この詩をパウロ的詩編と読んでいます。というのは、パウロの手紙にこれらの詩編からの引用がなされているからです。ということは、パウロに福音理解の根拠を与えた詩ということも出来るでしょう。

 ローマ書4章5節でパウロは、「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と語り、そして、「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています」(同6節)と述べてから、冒頭の言葉(1,2節)を引用しています。パウロにとって、「神から義と認められる」というのは、「背きを赦され、罪を覆っていただいた」ということです。

 「働きがなくても」と言っていますから、律法を完全に守ったかどうかが問題なのではありません。むしろ、律法を守れなかったこと、掟に背いたことを、神が赦して下さる、無かったことにして下さるというのです。ですから、「いかに幸いなことでしょう」とは、「ラッキーでしたね」という意味などではありません。私たちの背きを赦し、罪を覆うために、私たちを神の恵みへと招く言葉、私たちに幸いを授けようという祝福の言葉なのです。

 ダビデ王は、自分の忠実な部下であり、勇士であったウリヤの妻バト・シェバと姦淫し、その罪を誤魔化すためにウリヤを戦死させ、その後、バト・シェバを自分の妻として迎えました(サムエル記下11章)。ダビデの罪を知る者は少なくなかったと思われますが、そのことで王を咎める者はいませんでした。王の権力を恐れたでしょうし、王に石を投げることの出来る罪なき者もいなかったのです(ヨハネ福音書8章7節参照)。けれども、王の心は罪の咎めによって暗く、重くなっていきました。そして、それをどうすることも出来なかったのです(3,4節)。

 預言者ナタンから、その罪が指摘されてはじめてダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と告白することが出来ました(サム下12章)。そのとき、その罪が赦され、罪の咎めから解放されたのです(5節)。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章8,9節)と言われているとおりです。

 罪が赦され、その咎から解放された今、ダビデは「あなたはわたしの隠れ家、苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方」(7節)と、ここに感謝の祈り、喜びの賛美を献げているのです。

 しかしその赦しは、ただ罪を水に流したということではありません。ダビデとバト・シェバとの間に与えられた幼子が、ダビデの罪の身代わりとなりました(サム下12章14節以下、18節)。そして、ダビデの子孫としてこの世においで下さった主イエスが、私たちの罪のために十字架に死なれ、それによって、私たちは罪赦され、咎から解放されたのです。

 主イエスが、ルカ福音書15章11節以下で、「放蕩息子のたとえ」を話されました。父親は、放蕩の限りを尽くした後、ボロボロになって帰って来た弟息子を憐れみ、彼に最上の衣を着せ、指輪をはめ、靴を履かせます。それは、息子としての権利を回復したという徴です。そして、祝宴を開きます。先程までひどい格好をし、おなかをすかせていたのが嘘のようです。

 息子は、自分の腹を満たすパンを求めて、雇い人にでもしてもらおうと考えて帰って来たのですが、父親は、自分を「お父さん」と呼んでくれる息子の帰宅を待ち望んでいたのです。ここに、神の無条件の愛が表されています。

 ダビデだけでなく、ユダヤ人だけでなく、私たち異邦人すべてに及ぶこの無条件の赦しは、神の独り子イエス・キリストの十字架の贖いによってもたらされました。この救いの恵みを味わい、喜びと感謝をもって神をほめたたえ、主に従う者となりましょう。「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声を上げよ」(11節)。

 主よ、私たちはあなたの祝福への招きを聴きました。赦しと救いの恵みに与りました。この喜びと平安がすべての人に豊かにありますように。主の慈しみの御手で守り導いて下さい。 アーメン