「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。」 詩編25編4節
 
 この詩にも、アルファベットによる詩という注がついています(9,10編参照)。各節の最初の文字がアルファベットの文字順にならんでいるわけです。それは、詩の言葉を覚えやすくするという一つの技巧ですが、そこに、あらゆる言葉を尽くし、技巧を凝らして主に祈り、また賛美するという信仰の姿勢を見ることが出来ます。
 
 この詩を読んで目につくのは、「道」という言葉です。そのうち、4節の「(従う)道」と10節の「(主の)道」は「小道」(オーラハ)という言葉、残りは、「道、大路」(デレク)という言葉です。また、「道」(デレク)から派生した「導く」(ダーラク)という動詞が、5,9節に用いられています。
 
 冒頭の言葉(4節)の中で、二つの「道」という言葉が使われているのは、詩の技巧によるものでしょう。マソラ本文(ヘブライ語原典)には、「従う」という言葉はありません。口語訳は、「あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください」と訳し、新改訳は、「あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えて下さい」と訳しています。リビングバイブルでは「進むべき道」、「歩むべき小道」となっていました。
 
 道は往来する場所、目的地に向かって通過するところですが、そこに、「従う」とか、「進むべき」、「歩むべき」という形容詞がつくと、私たちが生きている上での規範というような、道そのものが意味のあるものになります。
 
 「あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えて下さい」という願いに、苦難を乗り越えて生きるべき道を教えてほしいという思いと、神に従い、神と共に歩む道を示してほしいという思いを見ることが出来ます。
 
 詩人は、神の憐れみ、助けと導きがなければ生きることは出来ず、そして神に従うことも出来ないと考えているわけです。だから、「あなたのまことにわたしを導いてください。教えて下さい。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています」というのです(5節)。
 
 「道」、「まこと」といえば、主イエスを思い起こします。主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハネ福音書14章6節)。ここで主イエスが言われた「道」は、父なる神のもとに行くための道路という意味ですが、「真理、命」と並べられて、生き方、生きる姿勢を示すものとなっています。つまり、その道を通って神との交わりに導かれ、そこから真理を得、豊かな命に与らせていただくことが出来るのです。
 
 私たちは神に愛され、選ばれてこの道を歩む者としていただきました。主は、「わたしがあなたがたを選んだ」(同15章16節)と仰せ下っています。主の道を歩むとは、主イエスと共に歩むということです。主イエスとの親しい交わりに導かれます。御言葉を聴くことが出来ます。
 
 そして、この道は十字架に向かいます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われる道です(ルカ福音書9章23節)。これは、大変な覚悟を伴う言葉でしょう。道楽や片手間で出来ることではありません。
 
 私たちは主イエスに招かれて、この道を歩み始めました。そして、主イエスがいつも共にいて、必要な助け、知恵と力を授けて下さいます。ゆえに、嫌々ながらではなく、感謝と喜びをもって歩むことが出来ます。
 
 我が大牟田教会は、今日、伝道開始百周年を祝う式典を開催致しました。ここから、第2世紀の歩みを始めます。これまでの恵みに感謝し、御名を誉め讃えつつ、新たな世紀においても、主の道を主と共に、御旨に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちを交わりに招いて下さり、感謝します。あなたの御声を聴き、御旨に従って歩むことが出来ますように。主の御名にふさわしく、いつも正しい道に導いて下さい。賛美しながら主イエスという門から入り、感謝して主を礼拝する者として下さい。 アーメン