「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。」 詩編11編4節
 
 1節に、「主を、わたしは避けどころとしている」と記されています。原文でも、「主」という言葉が冒頭にあります。わたしは主を信じる、主に依り頼む、主のみもと以外にわたしの避けどころはない、という信仰の表明です。

 これは、平時に語られた言葉ではありません。「鳥のように山に逃げよ。敵が命を狙って弓を引き絞っているぞ。神を信じてたって、こんなときには何の役にもたたないだろう。私のいうことを聞け。お前のためだ」(1~3節参照)という友の言葉に対して、詩人が答えた言葉なのです。
 
 これは、山に逃げるか、主の神殿に逃げ込むか、という逃げ場所選びの問題ではありません。山には神がおられないというようなことではないのです。そうではなくて、自分で自分の身の安全を図るというのではなく、その判断を神に委ね、神の導きに従うということです。ということは、私は今ここから逃げ出さない。ここは、神が私を置いて下さった場所だ。ここで、神に委ねられた働きをする、と言っていることにもなります。
 
 冒頭の言葉(4節)のとおり、聖なる宮におられる主なる神は、天に御座を置いておられる真の神です。そして、そのお方は、ひとり天において孤高を保っておられるのではありません。「御目は人の子らを見渡し」(4節)とあるように、神はその眼差しを私たちに向けておられるのです。
 
 ここで、「見渡し」(原語:ハーザー)というのは、「見る、予見する、知覚する、見て取る、預言する」という意味で、新改訳聖書は、「見通す」と訳しています。外見だけでなく心までも見られる神が、よくよく目を凝らして注視しておられる、と解釈すればよいでしょうか。
 
 「山に逃げよ」と勧告した友は、神ではなく、敵の姿を見ています。敵が矢を番えて狙いをつけるその眼差しに目を留めました。けれども、詩人は、自分に注目していて下さる主なる神に目を上げたのです。このように、何を見ているか、何に目を向けているかということで、その人がどこに立っているか、ということが示されます。
 
 ということは、「そのまぶたは人の子らを調べる」と言われていることから、神は、私たちが何に目を向けているか、何に信頼して立っているか、敵の姿や困難な問題を通して調べられる、とも言うことが出来そうです。ヨブが苦しみを経験したのも、そういうことだったのかもしれません。アブラハムに、「長子を全焼のいけにえとしてささげよ」と言われたあの無理難題も、そうでしょう(創世記22章参照)。
 
 私はこの試験に合格する自信はありません。正直に言えば、ペトロのように主を否み、山に逃げ出すことでしょう。また、ヨナのように舟に乗り込み、ニネベとは反対の方へ逃げ出すかも知れません。けれども、そのような弱い私にも、主は眼差しを向けておられます。
 
 三度否んだペトロを見つめられたあの主イエスの眼差しです(ルカ福音書22章61節)。それは、「そら見ろ、前もって言っておいたとおり、やっぱり裏切っただろう、わたしは嘘を言わないのだ」というような目ではないでしょう。「信仰が無くならないよう、あなたのために祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同22章32節参照)という、愛と恵みに満ち溢れた眼差しでしょう。その眼差しに支えられ、励まされてペトロは再び立ち上がることが出来ました。
 
 主はその眼差しを私たちにも向け、弱い私たちを労わり、励まして下さっているのです。だからこそ詩人は、「主を、わたしは避けどころとしている」と言うのです。御目をもって私たちを見通しておられる主の憐れみに依り頼み、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちは自分一人でしっかりと立っていることは出来ません。常にあなたの助けを必要としています。問題に遭遇するたびに主を仰ぎ、御言葉に耳を傾け、主の導きに従うことが出来ますように。恵みと導きが絶えず豊かにありますように。 アーメン