風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2021年02月

2月28日(日)主日礼拝説教

2月28日(日)の主日礼拝は、青森・八戸教会より松坂克世先生をお迎えし、説教を取り次いでいただきました。
主日礼拝には、教会員18名、来賓7名(子ども2名を含む)がお見えになりました。感謝です。


主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「愛の焼き魚定食」
聖書 ヨハネ福音書21章1~14節
説教者 松坂克世先生@八戸バプテスト教会



ご覧ください。



本日までに東海以西で緊急事態宣言が解除され、関東の1都3県も3月7日(日)までに解除される予定です。

静岡県内でも、外出の自粛要請や、県独自で発令したコロナ変異種の感染拡大緊急警報も解除されました。ただ、病床は逼迫していないものの、利用率が上昇しているということで、警戒レベルを4(ウイルス蔓延期・県の内外で感染を警戒する)に留めています。


ワクチン接種が始まりましたが、未だその効果が実感できる状況になく、治療薬が開発されて利用できるようになったというわけでもありません。緊急事態宣言や変異種感染緊急警報、外出自粛要請などで皆様が慎重な行動をしているお蔭で、感染者が減少したということであれば、コロナ感染症の警戒レベルがもっと引き下げられるために、引き続き慎重に行動することが求められます。


バプテスト静岡教会では、主から委ねられた命と生活を守るために、感染予防のための基本的な対策を徹底すると共に、3月14日(日)から、日曜日の教会学校小学科、青少年科、木曜日の聖書の学びと祈り会・午前の部を再開します。祈り会・午後の部は今少し休止を続けます。

主日礼拝は引き続き、通常のプログラムを短縮して行います。

これからも適切に判断、対応できるように、情報収集、状況注視に努めたいと思います。


教会においでくださる方は、予め検温して平熱を確認された上、マスク着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いします。

発熱(平熱より1℃以上高い)、空咳、倦怠感、味覚・嗅覚異常など新型コロナウイルス感染症の主な症状のある方は勿論、体調などに不安のある方や、緊急事態宣言が発令されている地域を訪ねられた方などは、集会への出席をお控えください。



日常生活においても新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、引き続き手洗い、うがい、消毒、外出時のマスク着用(飛沫防止の観点から不織布マスクを推奨)などを徹底し、また部屋の換気を行いつつ保湿にも努め、3密を避けて不要不急の外出は控えましょう。

皆様の心身の健康・健全な生活が守られますように。


2月28日(日)主日礼拝案内

02
2月28日(日)は、教会学校成人科を9時40分から行います。小学科、青少年科(中学生以上、30歳未満)は現在休止しています。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて新約聖書・「マタイによる福音書」から、共に聖書の学びと交わりを行います。



主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ヨハネ福音書21章1~14節より、「愛の焼き魚定食」と題して、松坂克世先生@八戸教会より説教をいただきます。



写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。



礼拝後、松坂先生を囲んで懇談会を行います。


お昼の用意はありません。





1都2府8県に2月7日(日)までの期限で発令された緊急事態宣言が、1県を除き、3月7日(日)までに延長されましたが、今月末までに東海、関西の2府3県の宣言は解除されるようです。関東の1都4県も、3月7日の期限再延長を要請する考えは内容です。しかし、解除後、再び感染者が増加に転じるのではないかと、警戒を強めています。


静岡県内では、外出の自粛要請などは解除されたことに続き、県独自で発令したコロナ変異種の感染拡大緊急警報も解除されましたが、まだウイルスの蔓延期を脱したという判断ではなく、警戒レベル4:県内も県外も感染を警戒するようにという指標を示しています。


未だワクチン接種の有効性が実証されたわけではなく、治療薬が開発されて用いることが出来るようになったというわけでもなく、緊急事態宣言や緊急警報、外出自粛要請などで市民県民の皆様が慎重な行動をしているお蔭で、感染者が減少したということであれば、コロナ感染症の警戒レベルがもっと引き下げられるために、慎重に行動することが求められます。

バプテスト静岡教会では、主から委ねられた命と生活を守るために、感染予防のための基本的な対策を徹底すると共に、引き続き木曜日の聖書の学びと祈り会、日曜日の教会学校小学科、青少年科は休止します。

また、主日礼拝は通常のプログラムを短縮して行います。

これからも適切に判断、対応できるように、情報収集、状況注視に努めたいと思います。


教会においでくださる方は、予め検温して平熱を確認された上、マスク着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いします。

発熱(平熱より1℃以上高い)、空咳、倦怠感、味覚・嗅覚異常など新型コロナウイルス感染症の主な症状のある方は勿論、体調などに不安のある方や、緊急事態宣言が発令されている地域を訪ねられた方などは、集会への出席をお控えください。



日常生活においても新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、引き続き手洗い、うがい、消毒、外出時のマスク着用(飛沫防止の観点から不織布マスクを推奨)などを徹底し、また部屋の換気を行いつつ保湿にも努め、3密を避けて不要不急の外出は控えましょう。

皆様の心身の健康・健全な生活が守られますように。

 

2月28日(日) 民数記21章

「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」 民数記21章9節

 イスラエルの民は、祭司アロンが息を引き取ったホル山(20章27,28節)を、30日間喪に服した後に旅立ち、エドムの領土を迂回しながら、モアブの地を目指します(4,10節以下)。エドムを迂回するのは、領内を通過する許可が下りず、かえって強力な軍勢で迎え撃つと警告されたからです(20章14節以下、18節)。

 そこで、迂回路を進むほかなかったというわけですが、民は途中で耐えられなくなり(4節)、神とモーセに逆らって、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか、パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(5節)と文句を言います。

 女預言者ミリアムや大祭司アロンを失って、この先、どうなるのかという不安が広がったのでしょうか。また、カデシュからネゲブに進んで来たのに、逆戻りするように南下して反時計回りにエドムを迂回するルートを進むのは、いつになったら約束の地につけるのかという思いにさせたことでしょう。その上、パンや水の蓄えもないという現実に、不満が出るのもやむを得ないという状況ではあります。

 しかしながら、彼らが「こんな粗末な食物」(5節)と呼んでいる「マナ」は、神が彼らのために提供されたものです(出エジプト記16章)。民は何の苦労もなく、毎朝それを集め、食事をすることが出来ているのに、あからさまに不平を言うということは、民の間に神への畏れや感謝の心が失われている証拠です。

 かつてイスラエルの民は、シナイの荒れ野を発ってパランの荒れ野を三日の道のり進んだんだ時、飢えと渇きを訴え、「今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(11章6節)と泣き言を言いました。主は彼らにうずらをお与えになりましたが、主は食べ始めた民に憤りを発し、激しい疫病で打たれたのです(同31節以下)。

 彼らはここで、以前の出来事を忘れてしまったかのごとく、再び同じような文句を言っているわけです。主はそういう民の不満の言葉を聞いて、炎の蛇を民に向かって送られました。蛇が民を噛んだので、多くの死者が出ました(6節)。

 「炎の」(サーラーフ)という形容詞は、蛇の毒で燃えるような感覚を覚えることを表わしているそうです。また、火は神の裁きを示すものですから、主の憤りを表現するものとして、「炎の蛇」という表現が用いられたのではないでしょうか(11章1節参照)。

 民はモーセのもとに来て、「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って蛇を取り除いてください」(7節)と罪を告白し、執り成しの祈りを要請します。ここ以外で民が主に背いた罪を告白したのは、約束の地を偵察した後、その地を悪く言って民の心をくじいて主の怒りを買い、不平を言った者は約束の地に入れないと宣告されたときだけです(13章1節以下、14章40節)。

 「我々は誤っていた」(14章40節)と言いましたが、それは二度と主に背かず、主に聴き従うという意味ではありませんでした。「荒れ野に向かって出発しなさい」(同25節)と告げられていたのに、「主が約束されたところへ上って行こう」と言い、「どうして主の命令に背くのか。成功するはずがない」(同41節)というモーセの警告を無視して行動したからです(同44節)。

 ここで改めて、民の悔い改めの姿勢が問われます。モーセが民のために祈りをささげると、主は「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)と言われました。血清を造らせて民を癒したとか、神の力で蛇を消滅させるというような方法ではなかったのです。

 なぜ、竿の先に掲げられた炎の蛇を見上げるだけで、助かるというのでしょうか。勿論、そこに科学的な根拠などあるはずがありません。竿の先に掲げられた蛇が毒を消すのではなく、主がそれをなさるのです。しかしながら、主は民に信仰を要求し、御言葉に従うかどうかを試されました。

 冒頭の言葉(9節)のとおり、モーセは青銅で蛇を造り、それを旗竿の先に掲げました。「蛇」は「ナーハーシュ(nachash)」、「青銅」は「ネホーシェト(nechoshet)」という、非常によく似た単語で、いわゆるダジャレのようになっています。

 旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見た人は、命を得ました(9節)。そんなばかばかしいことは出来ないと考えて蛇を見上げなかった人は、命を落としたことでしょう。即ち、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇に人を癒す力があるのではなく、「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)と言われた主を信じ、御言葉に従う者に、癒やしの恵みが与えられたのです。

 後に、主イエスがこの出来事を律法学者ニコデモとの対話の中で取り上げて、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章14~15節)と言われました。「人の子も上げられる」とは、十字架につけられることであり、また、復活後に天に上げられることでもあります。

 主なる神は、民の罪を裁いて炎の蛇を送って死をもたらし、竿の先に掲げられた青銅の蛇によって民に命を得させられました。そのように、主イエスの十字架は私たちの罪の裁きの場であると同時に、主イエスを信じる者に罪の赦しと永遠の命を与える救いの場なのです。

 主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれます(ルカ福音書9章23節)。先立って歩まれる主イエスを絶えず拝しながら、日々、十字架を背負って主に従って参りましょう。

 主よ、神を畏れず、感謝を忘れた者たちは、不平不満に満たされ、やがて死を招きました。しかし、悔い改めて御言葉に従い、十字架の主を拝する者は命を得ました。弱い私たちを助け、常に信仰をもって主を仰がせてください。あなたこそ、主であって私たちを癒す方だからです。御名が崇められますように。 アーメン


2月27日(土) 民数記20章

「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』」 民数記20章12節

 イスラエルの共同体全体が、ツィンの荒れ野に入りました。それはイスラエル南部のネゲブの南に位置し、約束の地カナンの南端を指しています(34章4節)。

 そこでミリアムが死に、埋葬されました(1節)。出エジプトにおいて重要な役割を果たしたミリアムですが(出エジプト記2章1節以下、15章20,21節)、アロンと組んでモーセを非難したかどで神に打たれ(12章)、以来再び表舞台に登場してくることはありませんでした。

 ツィンの荒れ野、カデシュには飲み水がありませんでしたので(2節)、民がモーセとアロンを非難して、「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか」(4節)と言います。問題に直面して平安を失い、未来に希望を持てなくなると、ここで死んだ方がましとか、昔はよかったとか言い出すのが、私たちの常です。

 二人が臨在の幕屋の入り口にひれ伏すと、主の栄光が現れ(6節)、モーセに「あなたの杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(8節)と言われました。

 モーセは命じられたとおり、主の御前から杖を取りました(9節)。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(10節)と言いました。モーセが手を上げて、杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲むことが出来ました(11節)。

 ところが、このモーセの言動は、主を悲しませました。主の告げられた御言葉に素直に聴き従わなかったからです。だから、冒頭の言葉(12節)のとおり「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と断じられ、それゆえ「あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」と告げられたのです。

 問題は、モーセが会衆に語った言葉です。主なる神は「『反逆する者らよ、聞け』と民に告げよ」とは仰いませんでした。確かに、民は繰り返しモーセに逆らい、非難を口にしました。その都度、モーセはそれに対応して来ました。11章以来繰り返されて来た指導者批判に、いい加減にしないかという思いにさせられたというのは、理解出来ないものではありません。

 けれども、モーセは何を考えて、「この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と語ったのでしょうか。それは、私はあなたたちの召使いなのか、何故に私があなたたちのために水を出さなければならないのかという思いでしょう。また、私がこの岩から水を出すことができるとでも思っているのか、それは出来ない相談だといった思いでしょう。

 「あなたたちはわたしを信じることをせず」と主が仰っているということは、モーセが自分には出来ないことと思っているだけでなく、主の仰るとおりにしても、それでは水を出すことが出来ないのではないかと考えていたことになります。

 また、絶えず自分を非難し、あれこれと文句を言って来るイスラエルの民のために、水を出してやりたくはないと言っているのであれば、岩から水を出すという主の御業を、自分自身の栄光にすることです。そして「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(8節)と言われた主の御心に背いています。

 ここで決定的なことは、主は「岩に向かって、水を出せと命じなさい」(8節)とモーセに命じられたのですが、モーセはそのとおりにせず、杖で岩を二度打ちました(11節)。杖で岩を打って水を出すというのは、十戒が授与される前に一度、レフィディムで経験していたことでした(出エジプト記17章5,6節)。

 つまり、モーセは主の御言葉に注意深く聴き従うことをせず、むしろ、それでは水を出すことは出来ないと考えて、自分の経験に従って杖で岩を打ったのです。そして、二度打ったということは、一度では水が出なかったので、もう一度岩を叩いたというわけです。それは、まさに御言葉への不信であり、不従順でしょう。

 歴史に「タラレバ」をいっても仕方がありませんが、もしも一度打ったところで気がついて、主の御前に悔い改め、あらためて主の御言葉を思い起こし、主が告げられたとおり、岩に命じて水を出そうとしていれば、その後の展開はまったく違ったものになったはずです。

 ただ、そのようなモーセの不信仰、不従順にも関わらず、2度叩いた岩から水がほとばしり出たのは、主が恵み深く、民の必要を満たされるお方であること、即ち、主が聖なるお方であられることを、自らお示しになられたということです。

 こうして、主が聖なるお方であること、主の御言葉が聖であることを示さなかったモーセとアロンに対して、主なる神は「この会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」(12節)と告げられ、神の民を導く指導者の座から退けられることになります。

 彼らは二人とも、約束の地を前にしながら、あと一歩のところで入れないということになります。一度の過ちが、取り返しのつかないことになってしまいました。イスラエルの民をエジプトの地から導き出したモーセとアロン兄弟、そして姉のミリアムは、誰も約束の地をその足で踏むことが出来なくなってしまったのです。

 この出来事の後、カデシュを旅立ってホル山に着いたところで、アロンは死に、先祖の列に加えられました(22節以下、28節)。また、モーセも後継者を任命した後(27章12節以下、申命記31章)、モアブ領アバリム山地のネボ山に上り、約束の地カナンを見渡して、息を引き取り、葬られました(申命記34章)。主に近くあることに、畏れを持たざるを得ません。

 その引き金は、民の不平でした。不信と不平によって、出エジプト第一世代は、モーセとアロン、ミリアムも含め、殆ど荒れ野で命を落とすことになります。あらためて、互いに主の御前に柔和と謙遜を学ばなければなりません。主の御言葉に真剣に注意深く耳を傾け、素直に聴き従って参りましょう。

 主よ、誰よりも謙遜で主と会衆に仕えて来たモーセが指導者として相応しくないと言われるのであれば、主の御前に立つことができる者など一人もいません。そうです。今私たちが主とともに歩むことができるのは、すべて主の恵みです。そのことを忘れ、思い上がることのないよう、常に主を畏れ、日々御言葉に注意深く耳を傾け、素直にその導きに従って歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン


2月26日(金) 民数記19章

「祭司は自分の衣服を洗い、体に水を浴びた後、宿営に入ることができる。しかし、祭司は夕方まで汚れている。」 民数記19章7節

 19章は、「清めの水」を取り上げています。9節では「罪を清める水」と言われていますが、11節以下で、特に死者に触れて汚れた者を清めるための水とされています。

 ここに、清めの水が取り上げられたのは、キブロト・ハタアワで疫病に打たれた人々をはじめ(11章31節以下)、カナンの地を偵察して悪い情報を流した者たち(14章36節以下)、レビ人コラやその仲間250名の指導者たち(16章参照)、そしてモーセとアロンに逆らって不平を言い、疫病に打たれた14,700人もの人々(17章6節以下)と、宿営内に死者が多数生じたからです。

 その葬りがなされたことを考えると、死者に触れずにすんだ者の方が少なかったのではないでしょうか。そうなると、社会生活に様々な支障が出て来ますから、宿営全体をその汚れからいかに清めるのかというのが、大きな問題になります。そこで、この定めが与えられたのでしょう。

 まず、赤毛の雌牛を宿営の外で屠り(2,3節)、その血を臨在の幕屋に向かって振りまきます(4節)。「正面に向かって」と言われますから、幕屋から東方、ユダ族を中心に宿営している地域の外側だろうと思われます。

 それから、その雌牛を焼きます。ここで、「皮も肉も血も胃の中身も」焼くという表現は、他に例がありません。というのは、焼き尽くす献げ物でも、血は祭壇の側面に注ぎかけられ(レビ記1章5節)、内臓は水洗いされるので(同1章9節)、血や胃の中身が共に焼かれることはないからです。すべてを焼き尽くして神にささげるということで、清めにつながるのでしょう。

 次いで、牛を焼いている火の中に、杉の枝、ヒソプ、緋糸を投げ込みます(6節)。これらは、重い皮膚病を患った人を清める儀式でも用いられています(レビ記14章6節)。それらのものが、汚れを清める力を持っていると考えられているのでしょう。

 そうして、その灰を集め、宿営の外の清い場所に保存します(9節)。その灰を容器に入れ、新鮮な水を加えると(17節)、それが清めの水となります。そして、その水にヒソプを浸し、死者に触れて汚れた人々などに振りかけて、汚れを清めます(18節以下)。

 この清めの水に関して、よく分からないのが、その作業に関わる人々がみな汚れると言われることです。冒頭の言葉(7節)で、雌牛を屠った祭司エレアザルが夕方まで汚れると記されています。汚れを身に受けることになるので、大祭司アロンではなく、息子の祭司エレアザルがこの儀式を任せられているものと思われます。

 これはまだ、屠られた雌牛とその血に触れたからと考えてもよいのですが、その灰を集めた者も汚れていると言われます(10節)。その灰は、罪を清める水を作る材料として集められたものだから、むしろ、その作業に携わる者は清くなると言われてもよさそうです。

 究めつけは、清めの水を振りかける人、その水に触れた者も汚れるとされるところです(21節)。人を清めるための水に触れて、その水を人に振りかけて、どうして汚れると言われるのでしょうか。水に触れた者が汚れるのであれば、水を振りかけられた人の罪がどのようにして清められるというのでしょうか。そのメカニズムは、全く理解不能です。

 ただ、私たちの罪のため、主イエスが贖いの供え物となられたということを考えると、少し見えてきます。神が罪を赦すと言えば、それで罪が清められるというのではなく、清い神の御子が私たちの汚れをその身に引き受けられることで初めて、私たちは清い者とされるのです。

 「善いサマリア人」の例え話で(ルカ福音書10章25節以下)、サマリア人は、追いはぎに襲われた人を見て憐れに思い(同33節)、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました(同34節)。

 翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」(同35節)と言いました。このサマリア人が、追いはぎに襲われた人の「隣人になった」人だと、主イエスは教えられます(36節参照)。

 そして、主イエスこそ、この例え話のサマリア人のモデルとなられたお方です。主イエスは、罪人の罪を自分の身に負ってその汚れを引き受け、罪そのもののようになられました(第二コリント書5章21節)。それによって私たちは清められたのです。主の打たれた打ち傷により、私たちを癒し、清め、解放し、自由の身にしてくださったのです(第一ペトロ書2章24節、ガラテヤ書5章1節)。

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を得させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ書5章13,14節)。

 主よ、私たちは傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によって贖われました。それは、あなたの一方的な愛でした。真理なる主イエスを信じて魂が清められた者として、聖霊によって心に注がれる神の愛に満たされて、感謝と喜びをもって互いに深く愛し合うことを学び、実行する者とならせてください。 アーメン


2月25日(木) 民数記18章

「イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなたとあなたと共にいる息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。これは、主の御前にあって、あなたとあなたと共にいるあなたの子孫に対する永遠の塩の契約である。」 民数記18章19節

 18章には「祭司とレビ人に関する規定」が記されています。ここには、「主はアロンに言われた」という言葉が3度(1,8,20節)記されています。それは、そこから新しい段落になるというしるしになります。25節に「主はモーセに仰せになった」という言葉があるので、ここには4つの段落があるということです。

 通常、アロンは、モーセを通じて主なる神の言葉を聞いていました。ここで主がアロンに直接語りかけられたのは、それによってアロンが主なる神に選ばれた祭司であることを確証しているかたちです。12章2節以下の「ミリアムとアロン」によるモーセの非難や、16章1節以下の「コラ、ダタン、アビラムの反逆」事件以来、アロンの祭司としての地位について、疑問視されていたのかも知れません。

 神は、アロンとその子らに、二つのものを賜物として与えたと言われます。それは、祭司アロンの務めを助け、幕屋の作業に従事するレビ人(3,4,6節)と、アロンを祭司職に任じたこと(7節)です。これらの賜物が与えられたのは、イスラエルの民を幕屋を汚す罪による死から守るためであり(3~5,7節)、その働きを通して主の恵みが民に届けられるためです。

 主は、聖なる献げ物の一部を「定められた分」(ホーク:口語訳「分け前」、岩波訳「割り当て分」、8節)として、アロン家の男子だけが食べられるのものとされています(10節)。「神聖な献げ物」について「穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物」(9節)とリストアップされています。

 次いで、「最上のオリーブ油、極上の新しいぶどう酒、穀物など、主にささげられた初物はすべて、あなたのものとなる。彼らの土地にできた初物で、彼らが主に携えるものはすべて、あなたのものとなる」(12,13節)と記されています。息子も娘も、男女を問わずそれに与ることが出来るのです(11節)。

 ここに告げられている献げ物の規定は、約束の地に定住し、収穫の恵みに与って初めて有効になるものです。8~19節で「これは不変の定めである」と3度(8,11,19節)語られるのも、アロンとの間に定められるこの規定が、アロンの子らにとっても有効であるという保証を与えているわけです。

 冒頭の言葉(19節)に「永遠の塩の契約」という言葉があります。「塩の契約」という言い方について、歴代誌下13章5節に「イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずはない」とあり、それは永遠、不変の契約という意味であることを示しています。

 ですから、ここで「永遠の塩の契約」と言われているのは、同じ意味の言葉を二つ重ねて「永遠不変」という意味を強調していることになります。それは、イスラエルの民が必ず約束の地に入ることが出来るということが、ここで強調されているということでもあります。

 アロンとその子らに献げ物の一部が授けられる根拠について、20節に「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である」と言われています。

 つまり、アロンとその子孫には、嗣業の土地という資産を持つことが許されません。だから、生活の基盤を主なる神の上に置いているのであり、献げ物の一部が与えられるのは、主の賜物と恵みに頼って生きることを、見えるかたちで証しするものだったのです。

 主イエスが、「人は皆、火で塩味をつけられる。塩はよいものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい」(マルコ9章49,50節)と言われました。ここで「塩」は、神との契約関係を示しています。

 これは、レビ記2章13節の「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」という言葉で、塩が契約の永遠性を示しているのと同様です。

 人は、自分で塩味をつけることが出来ません。それは、「火」に象徴される聖霊の働きによるのです。永遠の命を授けて神の子としてくださった主に信頼し(ヨハネ1章12節、3章16節)、聖霊の働きによって日々内側から清められ、御子キリストの姿に造りかえられましょう(第二コリント3章18節)。

 主よ、私たちは皆、御子の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けました。私たちの内に働く御力により、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。教会の働きを通して、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン


2月24日(水) 民数記17章

「死んだ者と生きている者との間に立つと、災害は治まった。」 民数記17章13節

 主はモーセに、祭司アロンの子エルアザルに対して、共同体の指導者250名が焼き尽くされた焼け跡から青銅の香炉を取り出し、炭火は遠くにまき散らすように告げさせます(2節)。さらに、取り出した香炉を打ち伸ばして板金にし、祭壇の覆いを作るよう命じさせます(3節)。そして、「これは、イスラエルの人々に対する警告のしるしとなる」(同節)と主は言われました。

 祭司エルアザルは、モーセを通じて命じられたとおり、香炉を集めて打ち伸ばし、板金にして祭壇の覆いを作りました(4,5節)。それによって、モーセに対する反逆は収まるかと思われましたが、翌日、共同体全体が「あなたたちは主の民を殺してしまった」(6節)と言って、さらにモーセとアロンを非難します。

 このように不平が噴出してくる背景には、エジプトを脱出して既に1年以上が経過しているのに、未だに乳と蜜の流れる約束の地に入れず、荒れ野を彷徨っていること(16章14節)、それはモーセとアロンによるミスリードではないかという考えがあるのでしょう。

 あるいは、「お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録された二十歳以上の者はだれ一人、わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない」(14章29,30節)と主なる神によって断罪されたことに対して、反発する思いがあるのかも知れません。

 神が民を断罪されたのは、審きを文字通りに実行することがその目的ではなく、むしろそれによって、悔い改めに導くためです。モーセらに対する不平不満ではなく、必要を満たしてくださる主に信頼し、荒れ野に向かって出発することで信仰が試され、成長することが求められているのです。主は、すべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるのです(第一テモテ2章4節)。

 モーセとアロンに反旗を翻したイスラエルの民が、臨在の幕屋の方を向くと、雲がそれを覆い、主の栄光が現れていました(7節)。「栄光」(カーボード)というヘブライ語は、もともと「重さ」を意味していました。主の御手がイスラエルの民の上に重くのしかかると、誰もそこから逃れることが出来ません。

 「神の力強い御手のもとで自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ5章6節)という御言葉があります。謙遜な態度が求められます。けれども、その時イスラエルの民は主なる神の御前に謙り、主が立てられたモーセとアロンの指導に素直に従うことが出来ませんでした。それゆえ、主の重い御手が民の上に厳しい裁きとなって臨むことになります。

 主はモーセに「この共同体から離れなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす」(10節)と言われました。それを聞いたモーセは、そこで民のための執り成しの祈りをしていません。それは、主の御前から怒りが出て、既に疫病が始まっていたからです(11節)。

 そこでアロンに「香炉を取り、それに祭壇の火を入れ、香を載せ、彼らのために罪を贖う儀式を行いなさい」(11節)と言います。アロンはモーセの命じたとおりに香を焚き、罪を贖う儀式を行いました(12節)。そして、冒頭の言葉(13節)の通り、死んだ者と生きている者との間にアロンが立つと、災害は治まりました。

 大祭司は、死者に触れて汚れを身に負うことが禁じられていますが(レビ記21章10節以下、11節)、アロンは死者の汚れを引き受けて、生きている者の防波堤の役割を果たしたのです。疫病で17,400人が亡くなりましたが、モーセとアロンの働きで、災害は治まりました。ここに、アロンが主によって立てられた神の祭司であることが、はっきり目に見えるかたちで示されます。

 それは、主イエスが私たちのために十字架にかかり、罪の呪いをその身に受けて死んでくださったことにより、その命の代価をもって私たちを罪と死の呪いから贖い、永遠の命に預かり、神の子として生きる救いの道を開いてくださることを、予表しています。

 不信仰によって神の安息から漏れることがないよう、「わたしたちには、諸々の天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(ヘブライ書4章14節)。

 主よ、あなたこそ生けるまことの神です。あなたが私たちを選び、その使命に与らせてくださったことを感謝します。しかし、私たちはその働きに相応しい者ではありません。知恵も力も足りません。主よ、委ねられた働きを忠実に果たすことが出来るよう聖霊に満たし、知恵と力を授けてください。宣教の御業が前進しますように。 アーメン


静岡教会公式サイト更新

教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に2月21日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



*コロナウイルス感染症特別措置法に基づく緊急事態宣言が、先月1月7日に関東1都3県に出され、その後、東海・関西の2府3県、関東・九州の2県にも地域が広げられました。

そして、当初2月7日(日)までとされていた期限が、関東の1県を除き、さらに一ヶ月後の3月7日(日)までに延長されました。

*静岡県内各地で感染者数が加速度的に増加してきたという状況に加え、英国由来の変異種に感染される方が出たことから、県独自の感染拡大緊急警報が出され、県境をまたぐ移動や不要不急の外出、家族以外との会食を自粛するよう要請されました。

県はその後、緊急事態宣言が発令されている地域を除く県外への移動や、家族以外との会食などの自粛要請を解除し、今週8日(月)に感染拡大緊急警報も解除しました。

現在、コロナ感染症の警戒レベルを4とし、不要不急の県外移動を控え、基本的な感染予防を継続することを求めています。詳細は「県の対策」をご覧ください。

また、国も感染者の減少を見て、愛知、岐阜、福岡3県の緊急事態宣言を解除する方向で検討していると伝えられています。


*集会の再開に向けて、準備を始めることにしていますが、感染者の減少は、緊急事態宣言や感染拡大緊急警報、県境をまたぐ移動や家族以外との会食の自粛要請などを、市民国民が忠実に守った結果であることから、警戒レベルが更に一段下がり、その上、ワクチン接種や治療薬の投与などが行われて、感染の収束に向かうため、今少し慎重な姿勢を維持した方がよいだろうと考えています。

*集会にお見えになられる方は、事前に検温して平熱を確認し、マスクを着用すること(お持ちでない方は受付に用意があります)、玄関受付で手指の消毒、前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いいたします。

発熱(平熱より1℃以上)、咳のある方、気だるさ、嗅覚・味覚異常など、コロナ感染症に主な症状がある方はもちろん、体調などに不安を覚えられる方、感染拡大地域を訪ねられた方などは、来会をお控えください。


*日々の生活においても、引き続き手洗い、うがい、手指などの消毒、部屋の換気、マスクの着用、室内の加湿など自衛策を徹底され、3密を避け、不要不急の外出をお控えください。


*皆様の上に主の守り、助け、平安が豊かにあり、日々健やかに過ごされますように。


2月23日(火) 民数記16章

「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」 民数記16章3節

 16章には「コラ、ダタン、アビラムの反逆」が記されています。コラは、「レビの子ケハトの孫でイツハルの子」(1節)です。3章27節以下、4章1節以下に「ケハトの氏族とその務め」が記されています。彼らは聖所を警護し、契約の箱や供え物の机、燭台、香の祭壇、その祭具などに関わり、レビの他の家系と比べて重要なポストを任されています。

 祭司アロンと指導者モーセもケハト族で、アムラム家に属します。コラが冒頭の言葉(3節)の通り「あなたたちは分を越えている」、「なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」と語ったということは、彼は、モーセやアロンだけでなく、同じケハト族に属しているイツハル家の自分も、モーセのような指導的な立場に立てるはずだと言っていることになります。

 あるいは、アロンとその子孫だけでなく、イツハル家の自分たちでも、祭司としての務めにつけるはずだと考えていたのではないでしょうか。モーセが、「あなたたちは祭司職をも要求するのか」(10節)と語っていることからも、それが伺えます。

 コラの反逆に、ルベン族のダタンとアビラム、オン(1節)、そして集会の招集者である共同体の指導者250名の名のあるイスラエルの人々(2節)がそれに加担しています。ルベンはヤコブ=イスラエルの長男です。彼らが、反逆するコラの仲間となったのは、2章に記された「全軍の配置」で家族の長の位置を4男ユダに譲るかたちにされたことに対して、不満があるのかも知れません。

 彼らは、「あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか」(13節)と言います。ここで「乳と蜜の流れる土地」というのは、主なる神が与えると約束されたカナンの地のことではなく、奴隷とされていたエジプトを意味しています。

 つまり、豊かな土地であったエジプトから荒れ野に連れて来て、ここでイスラエルの民を死なせようとしているというわけで、これは15章41節で「わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である」と言われた主なる神に対する明白な反抗です。

 続けて、「我々の上に君臨したいのか。あなたは我々を乳と蜜の流れる土地に導き入れもせず、畑もぶどう畑も我々の嗣業としてくれない」(14節)と言います。これは、一年以上も自分たちを荒れ野におらせて、豊かな生活に導き入れることが出来ないモーセを、これ以上指導者として信頼し、従うことなど出来ないということでしょう。

 コラたちの「共同体全体、彼ら全員が聖なる者である」(3節)という主張は、正しいものです。「聖なる者」とは、主によって区別された者という意味です。イスラエルは主のものとして、他の民から区別されました。そして、イスラエルの民の中からレビ人を区別し、レビ人の中からアロンとその子孫を区別して祭司とし、モーセを指導者としたのも、主なる神なのです。

 「イスラエルの神はあなたたちをイスラエルの共同体から取り分けられた者としてご自身のそばに置き、主の幕屋の仕事をし、共同体の前に立って彼らに仕えさせられる。あなたたちはそれを不足とするのか」(9節)と言われているのは、そのことです。

 モーセとアロンに逆らったコラとダタン、アビラムは、家族、持ち物一切を家もろとも大地に呑み込まれ(32節)、すべて生きたまま陰府、即ち死者の世界へ落ちました(33節)。また、コラに仲間として引き入れられた共同体の指導者250名は、主のもとから出た火で焼き尽くされました(35節)。

 彼らが「なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」(3節)といってモーセとアロンに逆らったとき、その動機は何であれ、二人を会衆の指導者として立てた主なる神に対して反逆していたわけです。

 主から託された使命を、主への畏れをもって果たそうとしない者は、主によって重く用いられることはありません。主イエスが「不正な管理人のたとえ」(ルカ福音書16章1節以下)を話されて、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(同10節)と教えてくださったとおりです。

 イザヤが預言者として召されたのは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ書6章1節以下)と主を畏れたときでした。ペトロが使徒として主イエスに召されたのは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5章8節)と語った後でした。

 私たちも、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」です(第一ペトロ2章9節)。私たちを選ばれた教会の頭なる主イエスの御前に謙り、畏れの心をもって各々委ねられた使命を忠実に果たして参りましょう。主が私たちに委ねてくださった務めはいずれも、決してごく小さな事ではないからです。

 主よ、静岡教会に連なるすべての信徒が御前に謙り、日々御言葉に真剣に耳を傾け、そこに示された主の御心に従い、それを忠実に実行することが出来ますように。静岡の町に住む686,085名の人々の日々の祝福を願って主の恵みと導きを祈り、主イエスの証人として喜びをもって神の愛と恵みをお伝えすることが出来ますように。 アーメン


2月22日(月) 民数記15章

「会衆は、あなたたちも寄留者も同一の規則に従う。これは代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちも寄留者も主の前に区別はない。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、同一の指示、同一の法に従わねばならない。」 民数記15章15,16節

 15章には、「献げ物に関する補則」などが記されていますが、11~14章の民の反抗や16章のコラによる反逆という記事に挟まれて、多少違和感を感じさせられる書き方になっています。しかしながら、なぜこの記述がここに入れられているのかという観点でよく読めば、いくつかのことに気づかされます。

 先ず、「わたしが与える土地にあなたたちが行って住むとき」(2節)、「わたしが導き入れる土地にあなたたちが入り、そこから得た糧を食べるようになるとき」(18,19節)という表現が示すように、この補則が実行されるのは、今ではありません。カナンの地に定住するようになってからのことです。

 「穀物の献げ物」(4節)や「ぶどう酒の献げ物」(5節)、「輪型のパン」という献納物(20節)など、定住して農耕の生活が出来るようにならなければ、始まらない話です。そのように、約束の地に入らなければ実行出来ない規則が、イスラエルの民の反逆の物語の間に配置されているということは、決して無意味なことではありません。

 イスラエルの民は、不信仰と不従順によって神を怒らせました。それで「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない」(14章22,23節)と言われていました。

 けれども、「お前たちは、子供が奪われると言ったが、わたしは彼らを導き入れ、彼らは、お前たちの拒んだ土地を知るようになる」(同31節)と告げて、彼らの子孫が約束の地に入り、そして、穀物やぶどうの収穫を得て神に感謝する生活をすることが出来るということを、この規則によって約束しているわけです。

 また、牛や羊、山羊などの献げ物と、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物をセットでささげるように規定されていますが(3節以下、9節以下、24節以下)、これは、レビ記23章に記されている三大祝祭日や、民数記6章のナジル人の誓願のときに特別にささげるものでした。3節の「特別の誓願を果たすため、あるいは随意の献げ物を献げるとき、または祝日に」というのは、それを示しています。

 しかし、8節で「和解の献げ物」として、また、22節以下、過失で律法を守らなかった共同体の献げ物としても、それらをささげるようにと、レビ記3章以下の規定が改定されています。

 その上、それをするのは「土地で生まれた者」(13節)、即ちイスラエルの民は勿論のことですが、「あなたたちのもとに寄留する者や何代にもわたってあなたたちのもとに住んでいる人」(14節)、つまり、異邦人や奴隷という非ユダヤ人も同様だと言われています。

 出エジプト記12章43節以下の過越祭の規定で、寄留者や奴隷も、割礼を受けたなら、過越の犠牲を食べることが出来るとされていました。今回は献げ物です。献げ物をささげるのは、神の幕屋です。幕屋は、宿営の中心におかれています。つまり、寄留者や奴隷の身分の者が、献げ物において、その中心に招かれているわけです。

 そして、冒頭の言葉(15,16節)のとおり、イスラエルの民も寄留者も区別なく、同一の規則に従えと言われています。即ち、主の御言葉に従うことにおいて、主の御前に、イスラエルの民も異邦人寄留者も、同様に見なされるということです。

 イザヤ書56章には「異邦人の救い」が約束されており、そこに「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(同7節)と記されています。すべての民が主を信頼し、主に祈りをささげ、そして、徹底的に主に聴き従うことを、主なる神が求めておられるのです。

 だから、主イエスがこの御言葉を引用しながら、宗教指導者らが神殿の中にいくつもの壁を立てて人々を分け隔てし、すべての人に与えられるべき神との交わりという恵みを独善的に奪って自分のものにしようとする「強盗の巣にしてしまった」(マルコ福音書11章17節)と言われたわけです。

 そして、ご自分の死をもって、至聖所と聖所を隔てていた垂れ幕を真っ二つに裂き(同15章37,38節)、「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」(ヘブライ書10章20節)ので、主イエスを信じる者がだれでも、安心して神に近づくことができるようになったのです(同22節)。

 「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」(エフェソ書2章19~21節)。

 これが神のご計画であり、恵みによって実現する神の御業です。主がしようとしておられることを妨げないよう、日々御言葉に耳を傾け、その導きに素直に従いましょう。

 主よ、私たちは先に救いの恵みに与った者として、全家族の救いを祈ります。友の救いを願います。日々の生活を通して、主の証しが出来るよう、聖霊の満たしと導きを求めます。私たちの隣り人と共に、主を神として礼拝する真の礼拝者として共に歩むためです。主を主がこの祈りを聞いてくださることを信じて、感謝します。 アーメン


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