「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない。」 ヨブ記32章13節
 
 ヨブの最終弁論が終わったとき、腹を立てて発言を始めた人物がいました。それは、ブズ出身でラム族のバラクエルの子エリフという若者です。ブズは、アラビアの町で、その町に出身者をブズ人と呼んでいたようです。つまり、エリフも、ユダヤ人ではないということです。エリフが、ヨブや三人の友らとどのような関係にあるのか、よく分かりません。
 
 ここでエリフは、ヨブに対して怒りをもって語り始めます。それは、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するからです(2節)。神が言い分を聞いて下されば、自分が潔白であることが分かるというヨブの主張は、神が今ヨブに対して行っていることは間違っていると言っていることになるわけで、それは、ヨブの方が神よりも正しいと主張していることになるわけです。
 
 また、このように神を敵に回して言い争おうとするヨブの過ちを正しく指摘できない三人の友らに対しても、エリフは怒ります(3,5節)。三人の友がヨブに言い負かされて沈黙したことは、神の義を汚し、ヨブの過ちを黙認するという大問題だったのです。
 
 2~5節の短い箇所に、4回も「怒る」(ハーラー)という言葉が出て来ますので、彼がたいへん感情を害していたこと、そしてその感情丸出しの意見開陳であったことが伺えます。大変な苦しみの中にいるとはいえ、そして、ヨブが律法に従って正しく歩んで来た者であることは誰もが知っていることだったのでしょうけれども、しかし、神よりも自分の方が正しいなどというヨブの暴論を、エリフとしては到底聞き流しておくことが出来なかったわけです。
 
 エリフの言葉の中に、大変重い言葉を見つけました。それは冒頭の言葉(13節)の、「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない」という言葉です。これは、三人の友らに向けて語られているもので、ヨブの過ちを正しく指摘しないまま、ヨブを打ち負かすのは神御自身で、それは人の役割ではないと、沈黙してしまうのは間違いだ、ということです。
 
 何が重いのかといえば、苦しみの中にいる人、そしてその苦しみの中から神に向かって抗議の言葉を語る人に対して、人間が何を語り得るのかということです。どういう言葉が彼の慰めとなり、励ましとなるのでしょうか。どうすれば、彼を正しく苦しみの闇から希望の光へと導き出すことが出来るのでしょうか。
 
 人が人の上に立って、見下すような思いで語られる言葉は、相手の心を動かしません。同じ苦しみを味わい、同じ境遇におかれた者でない限り、相手の心に届く言葉を語ることは出来ないのではないかと思われるのです。特に、苦しみの上に友らとの議論で冷静さを欠いているヨブに対して、「怒り」をもって語るエリフの言葉が届くのでしょうか。しかも、このエリフの言葉は、ヨブに向かっても、自分が聞きたいのは神の御言葉だけだ、ほかの者は沈黙せよなどという思い上がった考えを持つなという、挑戦的な意味合いを持っています。
 
 しかしながら、ここには、神と人との交わりを閉ざし、人と人との交わりを妨げ、破壊しようとする、どのような企てにも屈しないぞというエリフの心意気を感じます。エリフがこれを語ったのは、日数、年数といった人生経験ではありません。「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」という言葉(8節)に示されているように、彼の背後に神がおられ、語るべき言葉を与えておられたということです。
 
 しかるに、感謝すべきかな、私たちの主キリストは、私たちの痛み、病いをその身に負って下さったお方であり(イザヤ書53章3節以下)、私たちと同じように試練に遭われ、私たちの弱さに同情して下さるお方です(ヘブライ書4章15節)。私たちの傍らで私たちに寄り添って下さる主の御声に耳を傾けてみましょう。
 
 主よ、私たちの心に主イエス・キリストの愛を満たして下さい。知る力、見抜く力を身に着けて、私たちの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができますように。 アーメン