「彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。」 出エジプト記29章46節
祭服についての規定に続いて、本章では、祭司を聖別する儀式について記しています。まず任職の儀式の準備として、雄牛と小羊を種入れぬパンなどと共にささげ(1節以下)、アロンとその子らを臨在の幕屋の入り口で清めます(4節)。次に、祭服を着用させ(5節以下)、聖別の油を頭に注いで聖別します(7節)。
「任職式」(9節)は、「手を満たす」という言葉です。これは、聖職者への任職行為を表す専門用語(28章41節、レビ記8章33節、士師記17章5節など)で、任職に際して、実際に祭服かささげるべき犠牲などが手渡されたことに由来する表現だろうと考えられています(24節、レビ記8章27,28節参照)。
任職式のはじめに、「贖罪の献げ物」(14節)として若い雄牛一頭をささげます(10節以下)。次に「焼き尽くす献げ物」「宥めの香り」(18節)として、雄羊一匹をささげます(15節以下)。
続いて、任職のため雄羊をもう一匹取り(19節)、それを屠って血を取り、その一部をアロンとその子らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指とに付け、血を祭壇の四つの側面に注ぎかけます(20節)。また、血の一部と聖別の油の一部でアロンと子らの祭服に振りまき、聖別します(21節)。
血を右の耳たぶ、右手と右足の親指につけるのは、清めの儀式と考えられますが、耳につけるのは、耳が開かれて神の御言葉を聴くことが出来るようになるためでしょう。それと同様、手は御言葉に従って祭司の務めを全うすることが出来るように、足は御心に適う道を歩むことが出来るようになるためでしょう。
聖書の「聖」という文字は、「耳」と「呈」に分けられます。即ち、耳をささげるというのが、「聖」の字の意味するところです。耳がよくとおって神の声を聞きとることが出来る人、それゆえ、知徳の最も優れた人を、「聖(ひじり)」、「聖人」というようになりました。つまり、「聖」という漢字を作った人の思いは、道徳的な清さというよりも、神との関係の正しさを重要視しているわけです。
そこから、「聖書」とは、神の声を聞くことの出来る書物ということになります。主イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ福音書4章9,23節、7章16節など)と言われました。聖書を通して耳が開かれ、聞くべき神の御言葉を聴くことの出来る耳のある者にならせて頂きたいと思います。
ヤコブ書1章21節に「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」とあり、続く22節に「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と言われています。耳で聞いた御言葉を、手と足で行う者とならせて頂きましょう。
次に、雄羊の脂肪と右足を切り取ります(22節)。また、一塊のパン、輪形のパン、薄焼きパンを取ります(23節)。それらをアロンとその子らの手に載せ、主の御前に「奉納物」(テヌーファー:「揺り動かし、波のような動き、揺祭」の意)としてささげさせます(24節)。そして、それらを焼き尽くす献げ物と共に祭壇の上で煙にします(25節)。
そうして、この任職の儀式を7日間行います(35節)。祭司として聖別され、専ら神に仕える者となるために、儀式が7回繰り返されるわけで、祭司として任職されるために、主なる神への完全な献身が求められているということです。
続いて38節以下に、「日ごとの献げ物」についての規定が記されています。日ごとの献げ物として、一歳の雄羊一匹と、四分の一ヒンのオリーブを砕いて取った油を混ぜた、十分の一エファの小麦粉、そして四分の一ヒンのぶどう酒を、朝と夕に、それぞれの規定に従って主の御前で燃やして献げます。
四分の一ヒンとは約1リットル、十分の一エファは一オメルで、約2.3リットルです。量として、それほど大量ということでもありませんが、しかし、それを毎朝晩、献げるということは、オリーブ、小麦、ぶどうの収穫が安定していて、必要な量が絶えず確保出来るということが、必須条件となります。それらを保存するための施設も必要です。
今はまだ、荒れ野をさすらう生活をしていて、安定的に小麦粉やオリーブ油、ぶどう酒を確保するのは、不可能です。ということは、これからこの規定を守るということになるのですから、主が彼らのために小麦やオリーブ油、ぶどう酒を豊かに供給されるということ、それはつまり、モーセに率いられたイスラエルの民が、約束の地カナンに安住出来るようになるということを示しているわけです。
主なる神は、「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる」(45節)と言われ、そして冒頭の言葉(46節)を告げられました。イスラエルをエジプトの国から導き出した神が、彼らを約束の地へと導き入れ、地の産物を豊かにお与えくださるのです。それゆえ、日ごとに主への献げ物をするということは、彼らが主をおのが神とすることであり、彼らが神の民であるという証しです。
神はイスラエルを神の民とするため、そして彼らのただ中に宿られるために導き出されました。シナイ山に下られた神が、さらに山を下って民の間に住まわれるようになったのです。私たちの主イエスは、「インマヌエルと呼ばれる」(マタイ1章23節)お方です。
神の右の座から、この世に降って来られ、人となられました。主イエスに向かい、朝ごとに夕ごとに、賛美のいけにえを献げ、また時間を聖別して御言葉に耳を傾けましょう。そのとき、主が私たちを罪の呪いから解放してくださった神であられ、私たちの内に、私たちと共におられるお方であることを心と体で味わい知るのです。
主よ、あなたは天地万物を創造され、御手の内にすべてを支えておられます。私たちのような者にまで目を留め、私たちの内に住い、共に歩んでくださいます。その恵みに感謝しつつ、朝ごとに夕ごとにあなたの御前に進み、御言葉に耳を傾けます。私たちの耳を開いてください。御心を悟り、御業を行うために私たちの手と足を用いてください。 アーメン