風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2020年11月

11月30日(月) 創世記48章

「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」 創世記48章14節

 死期が近いのを知ったヤコブ=イスラエルは、息子ヨセフを呼び寄せ(47章29節)、「どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬って欲しい」(同29,30節)と願い、その実行を誓わせました(同31節)。

 その後、ヤコブが病気だとの知らせを受けたヨセフは、二人の息子を連れて父を病床に見舞います(1節)。するとヤコブは、息子ヨセフの二人の子マナセとエフライムを自分の子としたいと言います(5節)。「エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となる」(同節)ということは、ヨセフの子らがイスラエルを形作る12部族の2部族となるということです。

 さらに、マナセがヨセフの長男、エフライムは次男ですが、このときヤコブは、その順序を逆にして、「エフライムとマナセ」と言っています。それが8節以下、ヨセフの二人の子らの祝福において起こる出来事を、予め告げるというかたちになっています。

 ヤコブがヨセフの子らを祝福しようと言うので(9節)、ヨセフは父ヤコブの前にひれ伏し(12節)、二人の子をヤコブの前に進ませます(13節)。するとヤコブは、右手をエフライムの頭に、左手をマナセの頭に、両手を交差させて置きました(14節)。

 つまり、右側のマナセに左手を、左側のエフライムに右手を、交差させるかたちで手を置いたのです。口語訳は、「ことさらそのように手を置いた」と訳しており、不注意や気まぐれではなく、注意深く慎重に相手を選んで行われたことを示しています。

 イスラエルの伝統では、右手の祝福は長子に与えられるもので、遺産の配分において他の兄弟の2倍を受ける特権を有効にする祝福と言われています。ヨセフは、長男マナセが右手の祝福を受けるように右前に、次男エフライムを左前に進ませたのです。

 ところが、父ヤコブの右手が次男エフライムのの頭に置かれているので、ヨセフは父の手を置き換えようとします(17節)。けれどもヤコブはきっぱりと「わたしの子よ、わたしには分かっている」(19節)と言い、弟エフライムを兄マナセに勝って祝福しようと、神が選ばれたというわけです(19節以下)。

 なぜそうなのか、理由は説明されていませんし、ヨセフも父に対して、それ以上抗議をしていません。ここに、祝福というものは、人の考えに左右されない、神の自由な選びによって与えられるものということが語られているのです。そしてこの自由な選びは、神の憐れみに基づいています。

 ヤコブはヨセフを祝福して、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように」(15,16節)と祈ります。

 ヤコブは勿論、祝福の祈りを空しい言葉だとは考えていません。ヤコブは、父イサクを騙し、兄エサウを出し抜いて、この祝福を受けました。父イサクの祝福を受けずに生きることなど出来ないと、ヤコブは考えていたのです。

 生きていく上で、主なる神の祝福が不可欠という考えは間違っていませんが、しかし、そのためには手段を選ばないというやり方を、主なる神は喜ばれはしません。結局ヤコブは、兄エサウを恐れて、その前から逃げ出さなければなりませんでした。苦しみを味わい、後悔の日々を過ごしたでしょう。

 しかるに神は、ヤコブの罪を赦し、苦しみから救い出してくださったのです。ヤコブはここに、本当に大切なのは、祝福をお与えくださる神との交わりであることを、改めて知ったのです。特に、死んだと思っていたヨセフが生きていると知らされたとき、それこそおのが罪の結果と諦めていたのに、罪赦される喜びが湧き上がり、神の祝福の力を味わったのです。

 長子の受けるべき祝福が、次男に与えられたということを、新約の福音の光を通してみると、神の独り子イエス・キリストの受くべき分が、御子を信じて神の子となる資格が与えられた(ヨハネ1章12節)私たちのものとされた、私たちが御子キリストと共同の相続人となった(ローマ書8章17節)ということを示しています。

 ヤコブは祝福をお与えくださる神を「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ」(15,16節)と呼んでいますが、これは、ヤコブが自ら知らずして主イエスを証しているようです。

 使徒ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14章29節)、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同31節)と豪語していましたが、舌の根も乾かぬうちに3度も主イエスなど知らないと公言してしまいます(同66節以下)。

 主イエスはそのことについて、予めペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(ルカ22章31,32節)と告げられ、立ち直らせるべく、十字架の死によってペトロを贖い、御自分の証人として用いるべく、聖霊の力を注ぎ与え、使徒として立てられました。

 主は私たち一人一人にそれぞれ違った賜物を与え、違った仕方で主の祝福を体験し、主に従うように招かれています。「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ福音書21章23節)と。主の招きに答え、示された使命、主の御業のために励むものとならせて頂きましょう。

 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちをお選びになりました。それは、私たちが出て行って実を結ぶ者となるため、その実が豊かに残るためであり、また、御名による祈りが聞き届けられるためでした。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン


11月29日(日)主日礼拝説教

11月29日(日)の主日礼拝には、教会員15名、子ども1名を含む来賓5名がお見えになりました。感謝です。



主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「笑いをお与えになる神」
聖書 創世記21章1~21節
説教者 原田攝生牧師


ご覧ください。



*静岡市内で、県内でも、新型コロナウイルスに感染される方が増加してきています。感染防止のために、ご協力をお願いします。

*教会にお見えになる際には、マスクの着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席(ソーシャルディスタンス)など、感染防止策を徹底してください。

*発熱(平熱より1℃以上高い)や空咳、倦怠感、味覚異常など、コロナ感染症の主な症状のある方はもちろん、健康などに不安のある方は、集会出席をお控えください。


*日常生活においても、環境衛生に留意しつつ、3密(①密閉空間:換気の悪い密閉した空間、②密集場所:多くの人が密集している場所、③密接場面:互いに手を伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる場面)を避け、不要不急の外出を控えるなど、感染拡大防止に努めましょう。


*日々聖霊の導きを祈りながら聖書を開き、主のみ言葉に耳を傾けましょう。主に託されているめいめいの命、健康を守ることを最優先に、いつでも何処でも主イエスのみ顔を仰ぎ、み言葉に耳を傾ける礼拝の生活をしましょう。

*皆様とご家族の上に主の守りがありますように。


11月29日(日)主日礼拝案内

02
11月29日(日)は、教会学校小学科(小学生)、青少年科(中学生~)を9時半から、成人科を9時40分から行います。

教会学校は、「聖書教育」誌に基づいて旧約聖書・「コヘレトの言葉」(口語訳:伝道の書、新改訳:伝道者の書)から、共に聖書の学びと交わりを行うものですが、当面クリスマスに向けて、トーンチャイムの練習を行います。



主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、創世記21章より「笑いをお与えになる神」と題して、原田牧師より奨励をいただきます。

写真をクリックすると静岡教会公式サイトの礼拝説教の頁が開きます。
そこで、当日の礼拝プログラムを見ることができます。


礼拝の中で、世界祈祷週間のアピールを行います。



静岡市内でもクラスターが発生するなどコロナウイルスに感染する方が急速に増えています。

3密を避けるため、主日礼拝は通常のプログラムを短縮しています。

教会においでくださる方は、マスク着用(お持ちでない方のために教会に用意があります)、水分補給のための水筒・ペットボトルなど持参、礼拝堂玄関受付で手指の消毒、礼拝堂では前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いします。

熱、空咳、倦怠感、味覚異常など新型コロナウイルス感染症の主な症状のある方は勿論、体調などに不安のある方は、出席をお控えください。



礼拝後、会堂の大掃除を行います。

お昼の用意はありません。


日常生活においても新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、引き続き手洗い、うがい、消毒、外出時のマスク着用などを徹底し、また部屋の換気を行いつつ保湿にも努め、3密を避けて不要不急の外出は控えましょう。

皆様の心身の健康・健全な生活が守られますように。


11月29日(日) 創世記47章

「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」 創世記47章7節

 ヤコブは、息子ヨセフがエジプト全国を治める者として生きており(45章26節)、自分と家族をエジプトに招いていると知り(同21節以下)、神の御心を確認した上で(46章1節以下)、家族全員を連れてベエル・シェバを発ち(同5節以下)、エジプトに下りました。

 そして、ゴシェンの地でヨセフに会いました(同28節以下)。これは、どんなに嬉しい出来事だったことでしょう。特別に可愛がっていて(37章3節)、しかし既に死んだものと思っていた(同33節、42章36、38節)ヨセフと、再会する日が訪れたのです。ヤコブの「わたしはもう死んでもよい」(46章30節)という言葉に、この感激の大きさを見ることが出来ます。

 ヨセフは兄たち5人を連れてファラオのところへ行き(1,2節)、自分の家族たちがゴシェンの地に住む許可を願い出ます(3節以下)。ゴシェンは、ナイル川河口デルタ地帯(下エジプト地帯)にあります。11節に「そこは、ラメセス地方の最も良い土地であった」と記されているとおり、ゴシェンは居住や牧畜に適する地でした。

 ヨセフは、「わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります」(1節)と、自分の家族がたまたま滞在している場所として言及し、ヤコブの兄弟たちがその仕事について、「先祖代々、羊飼いでございます」(3節)とファラオの問いに答え、「ゴシェンの地に住まわせてください」(4節)と求めました。

 ファラオはヨセフに、「父上と兄弟たちが、お前のところにやって来たのだ。エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう」(5,6節)と言いました。ヨセフのゆえに、父上と兄弟たちのことを「よきにはからえ」というわけです。

 それからヨセフは、冒頭の言葉(7節)の通り、父ヤコブをファラオのところへ連れて行きました。そのとき、ヤコブがファラオに祝福の言葉を述べたと記されています。

 ヤコブは、どんなことをファラオに言ったのでしょうか。相手はエジプトの王です。富と権力をその手に握り、そして、自分と家族に対して非常に親切にしてくれています。それに引き換え、ヤコブは飢饉でカナンから出て来た者、住む場所も食べるものもなく、ただ王の好意に甘えるしかないような者です。

 ヘブライ書7章7節に「さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです」と記されています。この基準を当てはめると、エジプトのファラオを祝福したヤコブの方が、上なる者、大いなる者であるということになります。しかしながら、ここで、ヤコブの何がファラオに勝っているというのでしょうか。

 ファラオがヤコブに、「あなたは何歳におなりですか」(8節)と尋ねます(8節)。それは、老人に対する敬意の表明だと言われます。老人を大切にするという時には、その人格を敬い、尊ぶことが大切です。聖書では「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ記19章32節)と命じられています。

 ヤコブは、「わたしの旅路の年月は130歳です」(9節)と答えました。確かに長命です。けれどもヤコブは続けて「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」(同節)と語ります。

 「苦しみ多く」(ラーイーム)は「悪」(ラーアー)という言葉の複数形です。これは、自分の若き日々の罪を思っているところから語られた言葉遣いと考えられます。父を騙し、兄を押しのけるような真似をして、その結果、その「悪」の呪いがブーメランとなって自分に返ってきたような、こんなに苦しみ多い生活を送っているというわけです。

 そんなヤコブが、エジプトのファラオに与えたいと思うものとは何でしょうか。ファラオは権力を持ち、富を持っています。住む家も食べる物も、その他ありとあらゆるものを豊かにもっています。ヤコブには、ヘブロンに墓地とわずかな畑があるだけで、続く飢饉の中、食料も底をついていました。

 しかし、ヤコブの目は、エジプト中のすべてのものよりもさらに豊かな、神の祝福を見ています。神はヤコブの想像を超えて、祝福を豊かにお与えくださるお方であることを、これまで何度も経験してきました。そして今も、死んでしまったと思っていた愛するヨセフと、全く思いもよらないかたちで、再会を果たせたのです。

 父イサクの祈りを通して与えられた神の祝福の確かさを、繰り返し味わってきたからこそ、臆することなくファラオの前に立ち、ファラオに対して、祝福の言葉を語ることが出来たのです。そしてそれは単なる言葉ではなく、実際にファラオを富ませる力となっていくのです。この後、エジプト中の家畜(16節以下)、農地と民がファラオのものとなりました(20節以下)。

 ペトロとヨハネが、「美しい門」の傍らで物乞いをしていた、生まれつき足の不自由な男に対して、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章6節)と言いました。すると、男は躍り上がって立ち、歩き出しました(同8節)。

 これは、イエス・キリストを通して私たちに与えられている祝福の力の大きさ、強さを示しています。私たち自身が主イエスの御名によって立ち上がり、信仰によって歩き出すようにと命じているのです。人々が聞きたいのは、理屈ではなく、この力をもって働く主イエスの救いの福音なのです。

 主よ、私たちには、聖霊を通して神の愛が与えられています。主イエスの十字架の死によって罪赦され、今本当に自由にされて、喜んでいます。この信仰の喜びと平安を、多くの方に語り伝え、日々の生活で証しすることが出来ますように。アーメン


11月28日(土) 創世記46章

「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民とする。」 創世記46章3節

 エジプトで司政者となっていたヨセフが、兄弟たちに自分の身を明かした上で(45章1節以下)、まだ5年は飢饉が続くので(同6節)、全家でエジプトに下って来るようにと、父ヤコブに告げさせました(同9節以下)。それはヤコブにとって、にわかに信じることの出来ないニュースでした(同26節)。

 獣に殺されたと思っていたヨセフが生きており(37章33節)、しかも、「エジプト全国を治める者になっている」(45章26節)というのですから。しかし、ヨセフが与えた数々の品を示されて、父ヤコブは元気を取り戻します(同27節)。抑え切れない喜びが湧き上がって来たことでしょう。

 46章は、物語の主人公の座が、もう一度ヨセフから父ヤコブに移ります。ヤコブ=イスラエルは、一家を挙げてエジプトに向けて旅立ちます。その途中、ベエル・シェバに立ち寄り、神にいけにえをささげました(1節)。ここはかつて、ヤコブが兄エサウを出し抜き、父イサクを欺いて、父の祝福の祈りを受けたところです(27章18節以下、28章10節参照)。

 その夜、幻の中に神が現れて、冒頭の言葉(3節)のとおり「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする」と言われました。37章以下のヨセフ物語の中で、神の顕現が記されるのは、唯一ここだけです。

 ここに「エジプトへ降ることを恐れてはならない」と言われていますが、ヤコブはエジプト行きを恐れているのでしょうか。そこに、恐れるべき事態が待ち受けていると、ヤコブが考えていたのでしょうか。エジプト行きは、死んだと思っていた息子ヨセフと再会するためであり、なお5年は続く飢饉から逃れるためです。

 むしろ、ベエル・シェバに留まるほうが、恐れを伴うというものでしょう。ヤコブがエジプト行きをためらい、恐れる理由を見出すことは、出来そうにありません。ここでヤコブが恐れているのは、エジプトに下ること自体ではなく、約束の地を離れてエジプトに下ることを、主なる神が許されるのかということでしょう。

 これまで、自分が欲しいと思ったものを手に入れるためには、手段を選ばないというヤコブでしたが、あらためて神の祝福を受け、今や「イスラエル」という名を与えられています。でありながら、またもや神の御旨を尋ね求めないで、目に見える物に心動かされ、利益に飛びつこうとしているのではないかと、あらためて神を畏れ、いけにえを献げて、御旨を祈り尋ねたわけです。

 それは、本当に神によって生きていこうとしているのか、本当にパンよりも神の御言葉が大切なのかということでしょう(マタイ福音書4章4節参照)。そこでヤコブはここに、神を畏れ、神の御言葉を求めて礼拝をささげました。それを神が祝福されて、「恐れず安心してエジプトに下れ、そこで大いなる国民としよう」という約束をくださったわけです。

 さらに、「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」(4節)と言われます。この約束はヤコブにとって、マクペラの畑にある先祖の墓に埋葬されることを指しています(49章29節以下、50章13節)。そしてそれは、ヤコブの子孫がいつの日か、カナンの地に戻るということを示すものです。

 ヤコブ=イスラエルは、息子や孫、娘や孫娘など、一族を皆引き連れてエジプトへ向かいました(7節)。レアから生まれた子らが33名(15節)、ジルパの子らが16名(18節)、ラケルの子らが14名(22節)、ビルハの子らが7名(25節)で、かくてヤコブの子らは、合計70名です(27節)。

 既に大家族となっているヤコブですが、エジプト行きを通して「大いなる国民」となるという主なる神の祝福を受けました。430年後、神の人モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、兵役に就くことの出来る20歳以上の男子だけで60万3550人になります(民数記1章45,46節)。

 ヤコブ=イスラエルが、神の御前に砕かれ謙ったように、主イエスの弟子たちも御前に砕かれる経験をしました。それは、ゲッセマネの園で主イエスを見捨てて逃げ去ったこと、大祭司カイアファの官邸で主イエスを知らないと三度も否定したことです。

 彼らは、自分の力で信仰に堅く立つことは出来ない、神に頼り、聖霊の力を受けなければ、主イエスの証人となることは出来ないと思い知らされたのです(使徒言行録1章8節)。だからこそ、弟子たちは主の召天後、心を込めて一つになって真剣に聖霊を祈り求めました(同14節)。

 主なる神は、弟子たちの祈りに応え、彼らを聖霊に満たしました(同2章1節以下)。そこから、キリスト教会の働きが始まったのです。徹底的に自らの貧しさ、罪深さを知り、謙って主に従いましょう。

 主よ、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたを慕い求めます。日々、御言葉を聞かせてください。主の愛と恵み、聖霊の力と導きを祈り求めます。どうか私たちを祝福し、恵みの証人として用いてください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン


11月27日(金) 創世記45章

「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」 創世記45章5節

 いよいよ45章は、37章から始まったヨセフ物語のクライマックスです。「何とぞ、この子(ベニヤミン)の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」(44章33節)という兄ユダの言葉を聞いたヨセフは、もう自分を抑えることが出来なくなり、兄弟たちを残して側にいる他の者たちを外に出し、自分の正体を明かします(1節)。

 ユダは、ヨセフが父親の愛を一身に受けていることを妬み、夢の話に恨みを抱いて、ヨセフをイシュマエル人に売ろうと提案した張本人です(37章26節以下)。そのユダが、上記の通り、父の愛を一身に受けているベニヤミンをかばい、自分が代わってヨセフの奴隷になると言ったのです。

 兄たちがエジプトに穀物を買いに来て以来、ヨセフはずっと、司政者ツァフェナト・パネア(41章45節)として彼らに接して来ました。それは、ヨセフが最初に見た、「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」(37章7節)という夢の実現でした。

 恐らく、ヨセフの心には、自分を苦しめた兄たちへの憎悪があったでしょう。それゆえ、かつての夢が実現したということで、勝ち誇る思いを持っていたかもしれません。そして、弟ベニヤミンを呼び寄せることにも成功しました。その気になれば、これからずっと側近くに置いておくことも出来ます。

 けれども、こうしたヨセフの企てを、父ヤコブや末弟ベニヤミンに対する兄ユダの思いが粉砕、溶解してしまったのです。それで初めて「わたしはヨセフです」(3節)と名乗ります。そして、「お父さんはまだ生きておられますか」(同節)と尋ねます。それを聞いた兄弟たちは、驚きのあまり答えることが出来ませんでした。

 ヨセフを空井戸に投げ込み、食事しながら相談している間に、ミディアン人がヨセフを引き上げ、イシュマエル人のキャラバンに売ってしまって、その姿を見ることが出来なくなって以来(37章12節以下)、死んだことになっていたヨセフです。それが今、自分たちの生殺与奪の権を手にしたエジプトの司政者として、目の前に立っているのです。どう考え、どのように答えればよいでしょうか。

 これは、復活の朝、墓から戻って来た女性たちがもたらした、主イエスが復活されたという知らせを聞いた弟子たちと同じ反応ではないでしょうか。弟子たちは、死んで葬られた主イエス復活の報告を、到底信じることは出来ませんでした。

 その上、主イエスがゲッセマネの園で身柄を拘束されたとき、弟子たちは皆主イエスを捨てて逃げ出しました。ただ一人ついて行ったペトロは、カイアファの官邸で、3度主イエスを否定してしまいました。主イエスが甦られたと聞いても、どの面下げて主イエスに会えるかといった心境でした。ヨセフの前にいる兄弟たちは、そんな主イエスの弟子たちと同じ状態だったことでしょう。

 「お父さんはまだ生きておられますか」(3節)とは、42章で兄たちがエジプトにやって来てから、何度も聞き、確認してきたところですが(42章11,13節、43章27,28節、44章19節以下、22,24~32節)、ここで改めてそのように尋ねるのは、自分がシメオンやベニヤミンに対して行ったことで、白髪の父を苦しませたと自覚するからでしょう。

 だから、司政者として自分たちの前に姿を現したヨセフを恐れて、口を開くことが出来ない兄弟たちを自分の側に近寄らせ、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」(4節)と確認させるのです。それは、決して自分が死者でも化け物でもないということ、「恨めしや」と登場して来たのではないということです。

 そして、冒頭の言葉(5節)のとおり、「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」というのは完全な赦しの宣言ですが、そこには、ヨセフ自身が兄たちや父に対してしたことは、エジプトに売られても仕方のないことだったという意味も含まれているようです。

 つまり、兄たちの仕業が原因でヨセフがエジプトに売られることになり、父ヤコブが苦悩したように、ヨセフがエジプトの司政者としての権力をもって、ベニヤミンについて企んだことによって、更に深く父を苦しませていることをユダの言葉で知り、それがヨセフに対して、その罪を告発したわけです。

 そして、「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(5節)と告げます。この言葉は、この時初めてヨセフの心に浮かんだ思いだったのではないでしょうか。今初めて本当のことが分かったということです。それは、37章でヨセフの見た夢は、ヨセフを勝ち誇らせるためではなく、神が家族に希望と将来を与えるためのものだったということです。

 目の前にある出来事に振り回され、一喜一憂する私たちですが、歴史を支配しておられる主なる神を信じ、日々御言葉に耳を傾けつつ、聖霊の導きを祈り求めながら、自分のなすべきことを忠実に実行して参りましょう。

 主よ、ベニヤミンのために身を投げ出すユダの言葉を聞いて、ヨセフは心溶かされ、兄弟たちの罪をすべて赦しました。ユダの言葉は、ヨセフ自身の罪を告発し、彼も兄弟たちや父の赦しを必要とする存在だと告げていたからです。そして、神の深い御心を悟りました。ヨセフが父の愛を受け、特別な夢を見たのは、家族の救いに奉仕するためであり、苦しみを味わったのは、ヨセフのエゴが砕かれるためだったのです。主の御名が崇められますように。 アーメン


11月26日(木) 創世記44章

「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」 創世記44章33節

 ジャーナリスト・評論家の扇谷正造氏の著書に『トップの条件』(PHP研究所、1983年刊)という本があります。30数年前、牧師となった最初の任地、松山の書店で求めました。この本には、リーダーとなる人物に求められる条件などが述べられています。副題は「『恕』一字で萬事」です。

 「恕(じょ)」は「如」と「心」の組み合わせ文字です。「如」は「似ている、同じ、等しい、らしくする」といった意味に用いられます。それに「心」を組み合わせて、「恕」は「心を等しくする」という文字となります。そこから、「相手の立場に立つ、人の身の上や心情について察し同情すること、思い遣り」という意味を表します。訓読みは「恕(ゆる)す」です。

 『トップの条件』に紹介されているエピソードで、孔子の弟子・子貢が「人生において大切なことを一字で表わすと、何という字になりますか」と質問したところ、孔子は「それ、恕か」と答えたという話が記されています(P.76)。これが、著書の副題の意味です。

 ヤコブの4男ユダが、ファラオの夢解き(41章16節以下)を機にエジプトの司政者となっている(同40節以下)腹違いの弟・11男のヨセフに対して、そうとは知らずに末弟ベニヤミンを守ろうとして語る18節以下の言葉は、私たちの心を揺さぶります。

 末弟ベニヤミンを連れて再び穀物を買いに来た兄たちを、司政者ヨセフは自宅での食事に招き(43章32節以下)、帰りには、執事に命じて袋一杯に穀物を入れさせ、その袋に代価として支払われた銀貨を返させました(1節)。彼らを特別な賓客として遇したわけです。その上で、自分の銀の杯をベニヤミンの袋に入れて置くよう命じました(2節)。兄弟たちは何も知らずに家路に着きます(3節)。

 町の門を出て、どれほども行かないうち、それこそ兄弟たちが夕べの宴会の席のことをあれこれ思い巡らしているところに、ヨセフのもとから追手がやって来て、「どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ」(4節以下、6節)と詰問されます。

 身に覚えのない彼らは、おのが身の潔白を証明するため、「僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります」(7節以下、9節)と、自分たちの荷物を調べるよう申し出ます。それは、単に盗みというだけでなく、「占い」という神が忌み嫌われるエジプトの習慣に手を出す冒涜行為だったからでしょう。

 執事は「その者はわたしの奴隷にならねばならない。他の者には罪はない」(10節)と答えて、年長者の袋から順に、念入りに調べます。最後にベニヤミンの袋を調べたところ、銀の杯が見つかります(12節)。ヨセフが策したとおり(2,4,5節)、こうして犯行の証拠が見つかったからには、彼らに弁解の余地はありません。

 すごすごと町へ引き返し(13節)、ヨセフの屋敷に戻ります(14節)。そして「お前たちのしたこの仕業は何事か」(15節)と問うヨセフに、「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります」(16節)と答えました。

 ヨセフがこのように策を弄したのは、母ラケルから生まれた実の弟ベニヤミンを、自分のもとに留まらせたいという思いからではないかと考えられます。それは、兄弟たちに「杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかの者は皆、父親のもとへ帰るがよい」(17節)と言っているからです。

 けれども、自分の身の上を明かさないまま、ヨセフがエジプトに売られることになった犯罪には加わっていなかった、血のつながった実の弟ベニヤミンを犯罪者とし、その罪を暴くという手法を採っていることから、単にベニヤミンを側におらせたいというだけではないかも知れません。

 かつて、父に頼まれて兄たちの様子を伺いに行ったヨセフが(37章12節以下)、上着をはぎ取られて穴に投げ込まれたこと(同23,24節)、その後エジプトの侍従長ポティファルに奴隷として売られたこと(同28,36節)、そこで無実の罪で投獄されたことなど(39章7節以下20節)、自分が蒙った苦しみを、兄弟たちにも味わわせようという思いが全くなかったとは言えません。

 けれども、ユダが「神が僕どもの罪を暴かれた」というとき、それはベニヤミンのことだけでなく、自分たちがヨセフに対してなした罪のことも告白していると思われます。そう考えると、神がヨセフを用いて、このように兄弟たちを真の悔い改めに導こうとされているといってもよいのではないでしょうか。

 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章9節)とあるとおり、主なる神は彼らの罪を赦し、罪の呪い、過去の出来事に対する後悔の念から、解き放ってくださろうとしているということです。

 ヨセフの言葉(17節)を聞いたユダは、父ヤコブがいかに末弟ベニヤミンを愛しているかという事情を、ヤコブが「わたしの妻」(27節)と呼ぶラケルが生んだ二人の子のうちの一人は既に死んだものと思われており(28節)、残る一人と父の魂は固く結ばれているので(30節)、ベニヤミンが戻らなければ、白髪の父を悲嘆のうちに陰府に下らせることになると説明します(31節)。

 そして、ベニヤミンをエジプトでの穀物購入に同行させる保証として、もしものことがあれば、自分が父に対して生涯その罪を負うと請け合ったことを告げ(32節)、冒頭の言葉(33節)のとおり、「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」と、司政者ヨセフに懇願しています。

 ユダはまさに「恕の精神」を発揮して、ここに弟ベニヤミンの罪を引き受け、またベニヤミンを失ったときの父ヤコブのことを思い遣り、父に対してなした保証を実行するために、自分自身を犠牲として司政者ヨセフの前に差し出したのです。それは、かつて自分が弟ヨセフをイシュマエル人の隊商に売ろうとした、罪滅ぼしでもあったでしょう(37章26,27節)。

 この物語は、ユダの子孫であるダビデの子として(マタイ1章1節)肉をとってこの世に来られた、神の御子、主イエス・キリストの十字架を思い起こさせます(ローマ書1章3,4節、第二テモテ書2章8節)。主イエスは、罪の虜になっている私たちを救うため、十字架にご自身を投げ出して罪の呪いをその身に引き受け、私たちが神の子として父なる神の許、本籍のある天に安全に帰って行けるように道を備えてくださったのです。

 この主の「恕(ゆるし)」を味わわせて頂いた者として、私たちも互いに愛し合い、その喜びを証しする者にならせて頂きましょう。

 主よ、ヤコブの息子たちが自分たちの罪に気づかされたように、私たちもあなたの御前に立つときに、おのが罪を自覚せざるを得ません。けれどもそこには、裁かれる恐れではなく、罪赦された喜びがあります。御子イエスが私たちの罪を身代わりに負ってくださり、私たちは神の子とされる恵みに与っているからです。今はただ、喜びと感謝をもって主にお従いするのみです。ハレルヤ! アーメン


11月25日(水) 創世記43章

「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」 創世記43章14節

 カナン地方にいる父ヤコブのもとに戻って来た息子たちは、エジプトで起こった出来事を父にすべて報告しました(42章29節以下)。特に、末の弟を連れて行けば、人質となったシメオンを返し、自由にエジプトに出入りできるようにしてくれると、エジプトの司政者の告げたことをヤコブに伝えたのです(同33,34節)。

 それを聞いたヤコブは、「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ」(同36節)と言い、ベニヤミンをエジプトに連れて行くことに同意しません(同38節も参照)。

 シメオンが一緒に戻って来なかったことで、父ヤコブが末息子のベニヤミンをエジプトに連れて行くのに同意することはなくなってしまいました。ベニヤミンを連れずに、兄弟たちはエジプトの司政者の前に出ることはできません。そして、彼らがエジプトにやって来ないということになれば、人質となったシメオンは無事ではいられないでしょう。

 全く八方ふさがりの状態になってしまいました。息子たちはこの災難の原因が、ヨセフにしたことの罰と考えてはいますが(同21節)、しかしどうすれば良いのか、なすすべを知らないのです。

 困難な状況を打開できる妙案もなく手をこまねいている間も、カナンを襲っている飢饉はひどくなる一方で(1節)、エジプトから持ち帰った穀物が、ついに底をついてしまいました(2節)。そこで父ヤコブが息子たちに、「もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい」(同節)と命じます。けれども、上述のとおり末弟ベニヤミンを連れないでエジプトに行くことは出来ません。

 父は、ヨセフのみならず、ベニヤミンまでも失うことは出来ないと考えて、エジプト行きを認めないと頑張るのですが(6節、42章36,38節)、しかしながら、穀物を買いに行かなければ、ベニヤミンを失うどころではありません。ベニヤミンを含む家族全員が飢えて、死んでしまいます。ヤコブは家長として、どうすべきかを決断しなければなりません。

 そのとき、ユダがベニヤミンのことを請合い、無事に連れ帰らなければ、その罪を生涯負うと約束します(8節以下)。その背景には、弟ヨセフをイシュマエル人に売ってしまおうと提案し(37章16節)、自分たちの手でそれを実行したわけではありませんが、ヨセフは実際に、ミディアン人の商人たちによってイシュマエル人に奴隷として売り渡されてしまいました(同28節)。

 そこで、ヨセフの晴れ着を雄山羊の血に浸し、野獣に噛み殺されたように偽装して父親に届けると(同31,32節)、父親はそれにだまされて深く嘆き悲しみ(同34節)、慰められることを拒み、「嘆きながら陰府に下って行こう」(同35節)とまで言いました。そのような事態を引き起こしてしまったという負い目が、ユダのそのような発言になったのでしょう。

 ユダの言葉がヤコブの背中を押し、「どうしてもそうしなければならないのなら」(11節)と言い、「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい」(13節)と、ベニヤミンを連れて穀物を買いに行くことに同意します。

 そのように心を決めた父ヤコブは、交渉を円滑に進め、出来ればベニヤミンと「もう一人の兄弟」を無事に返してもらえるよう、土地の名産を贈り物とすること、また穀物の代金の二倍の銀貨を用意し、袋に戻されていた銀貨も返すことと、息子たちに具体的な指示を与えます(11,12節)。

 冒頭の言葉(14節)で、「もう一人の兄弟」とは、当然エジプトに捕らわれているシメオンのことです。しかし、エジプトから持ち帰った穀物がある間、シメオンの存在は忘れられたようなものでした。ベニヤミンを返してくれるようにと神に祈り求める際、ようやく思い出してもらえたかたちです。

 もしも、司政者がヨセフでなく、本当に息子たちを回し者と疑ってこのような措置をとっていたのなら、息子たちがなかなかベニヤミンを連れて戻って来ないことに腹を立て、あるいはシメオンを処刑してしまったかもしれません。一日一日、その危険性は高まっていたのです。

 しかも、ヤコブは、神がこの祈りを聞いてくださるという確信に立っていたわけではありません。「子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」と言っているからです。

 ヤコブはベニヤミンが生まれるときに最愛の妻ラケルを失い(35章16節以下)、そして、最も可愛がり、依怙贔屓していたヨセフを失っています。「失ってもよい」というのは、それでも自分は大丈夫ということではないでしょう。むしろ、もしもそのようなことになるならば、もはや生きていく甲斐はない、自分も死のうと考えての発言のように思われます。

 それでも、彼は「全能の神」(エル・シャダイ、17章1節、28章3節、35章11節)に、「もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように」と祈りました。彼が依って立っていたのは自分自身の確信ではなく、全能の神の「憐れみ」(ラハミーム)です。これは「レヘム(子宮)」の複数形です。自分のお腹を痛めて産んだ子を思う母の心を「憐れみ」と表現しているわけです。

 その神の憐れみにかけて祈るヤコブの心には、かつてエサウを恐れてヤボクの渡しで神の人と組み打ちしたときのことが思い出されていたのではないでしょうか(32章23節以下)。ヤコブは、「祝福してくださるまでは離しません」(同27節)と、執拗に神の人に食い下がりました。そうして祝福を受け、「イスラエル」という名を授かることが出来たのです(同29節)。

 いみじくも、42章まで彼は「ヤコブ」と呼ばれていましたが、本章では彼を「イスラエル」と呼んでいます。自分でベニヤミンをはじめ家族を守ろうとしているとき、彼はヤコブと呼ばれ、自分でそれを守り切れず、万軍の主の憐れみにすがり、祈りの手を上げるよう導かれる状況において、イスラエルと呼ばれるようになっているわけです。

 そう考えると、この祈りはただ一度祈られただけではなく、息子たちがエジプトに送り出してから、カナンの地方に戻って来るまで、毎日ヤコブの口に上っていたのではないでしょうか。そして、神は確かにここでヤコブ=イスラエルとその子らを憐れみ、この祈りに導いてくださったのです。

 ただ神に依り頼む幸い、そして神の恵みに与る幸いを共に味わうことが出来るよう、私たちも万軍の主、全能の神の御名を呼び、「アッバ、父よ」と叫ぶほどに真剣に祈りましょう。主の御言葉に真剣に耳を傾けましょう。

 主よ、あなたはまことに慈しみ深いお方です。罪人の私のために独り子を十字架に贖いの供え物とし、私たちを救いに導いてくださいました。私たちはこの恵みを味わった者として、主の証しをする使命が与えられています。家族の救いを願います。知人・友人の救いを願います。そのために私たちを用いてください。聖霊に満たし、証しの力、祈りの力をお与えください。 アーメン


11月24日(火)静岡教会公式サイト更新

教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に11月22日(日)主日礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」、「フォトギャラリー」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。


御覧ください。



*今週11月26日(木)10時~、聖書の学びと祈り会を行います。聖書日課に従い、旧約聖書・創世記44章から学びます。午後7時からの祈り会は休会します。



*国内で新型コロナウイルスに感染される方が再び増加しています。ここ静岡市でもクラスターが確認され、感染者の増加が加速しています。世界的に感染拡大が続いており、今後も推移などを注視しながら、感染拡大防止のために必要な措置をとらせていただこうと思っています。

*集会にお見えになられる方は、マスク着用(お持ちでない方は受付に用意があります)、玄関受付で手指の消毒、前後左右1m以上空けて着席など、感染拡大防止のためにご協力をよろしくお願いいたします。

*発熱、咳のある方、気だるさ、味覚異常などの症状がある方はもちろん、体調などに不安を覚えられる方は、出席をお控えください。

*日々の生活においても、引き続き手洗い、うがい、手指などの消毒、部屋の換気、マスクの着用など自衛策を徹底され、3密を避け、不要不急の外出をお控えください。


*日本全国、ウイルス感染や自然災害と全く無縁なところなど、どこにもありません。

*皆様の上に主の守り、助け、平安が豊かにあり、日々健やかに過ごされますように。


11月24日(火) 創世記42章

「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々に降りかかった。」 創世記42章21節

 42章から、物語は大変ドラマティックに展開して行きます。エジプトのファラオが見た夢(41章1節以下)をヨセフが解き明かした(同25節以下)とおり、7年間豊作が続いた後(同47節以下)、7年間の飢饉が始まりました(同53節以下)。

 ファラオはヨセフを責任者として(同37節以下、40節)、飢饉対策をしっかりと実行しました(同48,49節)。そのため、エジプト周辺諸国をも巻き込んだ大凶作の中で、エジプトには十分な食物があり、やがて、各地から穀物を買いにエジプトにやって来るようになりました(同54節以下)。

 その中に、ヤコブの息子たち、即ちヨセフの10人の兄たちもいました(1節以下)。エジプトの「司政者」(ハ・シャッリート:権威者)ヨセフ(エジプト名:ツァフェナト・パネア「神は語られ、彼は生きる」の意;41章45節)の前に来てひれ伏し、食糧を買うためにカナンからやって来たと告げます(6,7節)。彼らは、司政者が弟のヨセフだとは気づきませんでした(8節)。

 ヨセフの方がいち早くそれに気づき(7,8節)、「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たに違いない」(9節)と言います。兄たちは身に覚えのないことを言われるので、何とか司政者の誤解を解こうとして自分たちの氏素性を語ります(10,11節、13節)。

 その中で、兄たちは問わず語りに「末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました」(13節)と、ヨセフのことにも言及しています。それを聞いた司政者は、「お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟をここに連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す」(16節)といって、皆を牢獄に監禁してしまいました(17節)。

 けれども、三日目に司政者が姿を現すと(18節)、「兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い」(19,20節)と命じました。監禁する者と穀物を持って家に帰る者の数を逆転させたわけです。

 ヨセフの真意が定かではありませんが、「もう一人は失いました」という表現の意味、そのことについての兄弟たちの考えを知りたいと思ったのでしょう。しかし、9人を監禁して一人だけを家に帰すなら、父ヤコブはいよいよ意気消沈し、末の息子ベニヤミンを絶対失うわけには行かないと、決してエジプト行きを認めはしないだろうと考えて、方針を変えたものと思われます。

 兄弟たちにとって、スパイ扱いされての投獄は、まったく謂れのないことですから、大変な苦痛だったと思います。しかしながら、そうであればこそ、彼らは自分たちが、かつてドタンで弟ヨセフに対してなした仕打ち(37章17節以下)を、強く思い出させられたことでしょう。

 というのは、冒頭の言葉(21節)のとおり、「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ」と言い、自分たちの現在の苦しみを、かつてのヨセフの有様と重ね合わせ、自分たちの弟への仕打ちに対する罰と受け止めているからです。

 長兄ルベンの「だから、あの子の血の報いを受けるのだ」(22節)という言葉は、直訳すると、「彼の血が求められている」となります。血とは命のことですから、ヨセフは既に死んだものと思っているのです。それは取り返しのつかないことで、自分たちの命が要求されていると考えているということになります。

 ドタンで穴の中からいなくなったヨセフのことを(37章29節)、野獣に喰われたことにしていましたが(同31,33節)、ルベンはもしかすると、ヨセフが本当に獣に噛み裂かれてしまったのではないかと思っていたのかも知れません。「あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった」(21節)とは、彼らがヨセフを穴に突き落としただけではなかったということなのでしょう。

 ヨセフは、兄たちが語った言葉を聞きました。それは、自分に対して行った仕打ちを罪と認め、後悔している言葉でした。ヨセフはその場を離れて一人、涙を流します(24節)。ヨセフは、彼らが自分にしたことを忘れることはなかったでしょう。だから、兄たちがやって来たとき、「お前たちは回し者だ」と難癖をつけ、牢獄に監禁するような真似をしたのでしょう。

 ところが、兄たちの会話を聞いて、兄たちも自分のことを忘れてはいないこと、そのことに傷みを覚え、また悔いていることを知りました。苦しんでいたのは自分一人ではなかったと知ったわけです。そうすると、自分が今、彼らにしていることは、なんとひどい仕打ちだろうということにもなるでしょう。そうした思いが、熱い涙となって溢れ出たのではないでしょうか。

 そこで、罪滅ぼしの意味も込めて、兄たちの穀物の袋にその代金をすべて返し、彼らを特別なゲストとして処遇することにしたのではないでしょうか(26節以下)。兄たちが神の御前にひれ伏し、素直に罪を認めている姿に接して、ヨセフもまた、神の前にひれ伏す思いにさせられたわけです。

 ただ、兄たちはエジプトの司政者から回し者呼ばわりされて監禁され、シメオンを残して家に帰らされ、末の弟を連れて行かなければならなくなったこと、それから、穀物の代金がすべて戻されていることなど、訳の分からないことの連続に、「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」(28節)といぶかります。神のなさりようが、彼らの理解や経験を越えているのです。

 ヤコブの子らは、神の祝福に生きるよう選ばれていたのに、罪によってその祝福を見失っていました。しかるに主なる神は、彼らの罪を裁き、処罰しようとしておられるわけではありません。彼らを義の道に導こう、祝福の道に連れ戻そうとされていて、ヨセフにも彼らにも働きかけておられるのです。ここに、神の深い憐れみが示されています。

 万事を益としてくださる主なる神を信頼し、どんなことでも思い煩うことをやめ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めるところを神に打ち明けましょう。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 主よ、私たちが皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になれますように。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を祈る者とならせてください。私たちは、アブラハムの祝福を受け継ぐために召されたからです。 アーメン


プロフィール

pastabco

記事検索
最新コメント
月別アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • バプテスト静岡教会の集会再開のお知らせ
  • 3月21日(日)主日礼拝説教
  • 3月21日(日)主日礼拝案内
  • 3月14日(日)主日礼拝説教
  • 3月14日(日)主日礼拝案内
  • 3月7日(日)主日礼拝説教
  • 3月7日(日)主日礼拝案内
  • 2月28日(日)主日礼拝説教
  • 2月28日(日)主日礼拝案内
  • 2月21日(日)主日礼拝説教
  • 2月21日(日)主日礼拝案内
  • 2月14日(日)主日礼拝説教
  • 2月14日(日)主日礼拝案内
  • 2月7日(日)主日礼拝説教
  • 2月7日(日)主日礼拝案内
楽天市場
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ