「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」 創世記48章14節
死期が近いのを知ったヤコブ=イスラエルは、息子ヨセフを呼び寄せ(47章29節)、「どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬って欲しい」(同29,30節)と願い、その実行を誓わせました(同31節)。
その後、ヤコブが病気だとの知らせを受けたヨセフは、二人の息子を連れて父を病床に見舞います(1節)。するとヤコブは、息子ヨセフの二人の子マナセとエフライムを自分の子としたいと言います(5節)。「エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となる」(同節)ということは、ヨセフの子らがイスラエルを形作る12部族の2部族となるということです。
さらに、マナセがヨセフの長男、エフライムは次男ですが、このときヤコブは、その順序を逆にして、「エフライムとマナセ」と言っています。それが8節以下、ヨセフの二人の子らの祝福において起こる出来事を、予め告げるというかたちになっています。
ヤコブがヨセフの子らを祝福しようと言うので(9節)、ヨセフは父ヤコブの前にひれ伏し(12節)、二人の子をヤコブの前に進ませます(13節)。するとヤコブは、右手をエフライムの頭に、左手をマナセの頭に、両手を交差させて置きました(14節)。
つまり、右側のマナセに左手を、左側のエフライムに右手を、交差させるかたちで手を置いたのです。口語訳は、「ことさらそのように手を置いた」と訳しており、不注意や気まぐれではなく、注意深く慎重に相手を選んで行われたことを示しています。
イスラエルの伝統では、右手の祝福は長子に与えられるもので、遺産の配分において他の兄弟の2倍を受ける特権を有効にする祝福と言われています。ヨセフは、長男マナセが右手の祝福を受けるように右前に、次男エフライムを左前に進ませたのです。
ところが、父ヤコブの右手が次男エフライムのの頭に置かれているので、ヨセフは父の手を置き換えようとします(17節)。けれどもヤコブはきっぱりと「わたしの子よ、わたしには分かっている」(19節)と言い、弟エフライムを兄マナセに勝って祝福しようと、神が選ばれたというわけです(19節以下)。
なぜそうなのか、理由は説明されていませんし、ヨセフも父に対して、それ以上抗議をしていません。ここに、祝福というものは、人の考えに左右されない、神の自由な選びによって与えられるものということが語られているのです。そしてこの自由な選びは、神の憐れみに基づいています。
ヤコブはヨセフを祝福して、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように」(15,16節)と祈ります。
ヤコブは勿論、祝福の祈りを空しい言葉だとは考えていません。ヤコブは、父イサクを騙し、兄エサウを出し抜いて、この祝福を受けました。父イサクの祝福を受けずに生きることなど出来ないと、ヤコブは考えていたのです。
生きていく上で、主なる神の祝福が不可欠という考えは間違っていませんが、しかし、そのためには手段を選ばないというやり方を、主なる神は喜ばれはしません。結局ヤコブは、兄エサウを恐れて、その前から逃げ出さなければなりませんでした。苦しみを味わい、後悔の日々を過ごしたでしょう。
しかるに神は、ヤコブの罪を赦し、苦しみから救い出してくださったのです。ヤコブはここに、本当に大切なのは、祝福をお与えくださる神との交わりであることを、改めて知ったのです。特に、死んだと思っていたヨセフが生きていると知らされたとき、それこそおのが罪の結果と諦めていたのに、罪赦される喜びが湧き上がり、神の祝福の力を味わったのです。
長子の受けるべき祝福が、次男に与えられたということを、新約の福音の光を通してみると、神の独り子イエス・キリストの受くべき分が、御子を信じて神の子となる資格が与えられた(ヨハネ1章12節)私たちのものとされた、私たちが御子キリストと共同の相続人となった(ローマ書8章17節)ということを示しています。
ヤコブは祝福をお与えくださる神を「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ」(15,16節)と呼んでいますが、これは、ヤコブが自ら知らずして主イエスを証しているようです。
使徒ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14章29節)、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同31節)と豪語していましたが、舌の根も乾かぬうちに3度も主イエスなど知らないと公言してしまいます(同66節以下)。
主イエスはそのことについて、予めペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(ルカ22章31,32節)と告げられ、立ち直らせるべく、十字架の死によってペトロを贖い、御自分の証人として用いるべく、聖霊の力を注ぎ与え、使徒として立てられました。
主は私たち一人一人にそれぞれ違った賜物を与え、違った仕方で主の祝福を体験し、主に従うように招かれています。「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ福音書21章23節)と。主の招きに答え、示された使命、主の御業のために励むものとならせて頂きましょう。
主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちをお選びになりました。それは、私たちが出て行って実を結ぶ者となるため、その実が豊かに残るためであり、また、御名による祈りが聞き届けられるためでした。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン